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2015-05-12

[]責任 21:35 責任 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 責任 - 西川純のメモ 責任 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は学力的に最底辺の高校で教師人生を始めました。暴走族、暴走族OBがわんさかいる学校です。シンナーのやり過ぎで頭がぼーっとしていて、歯が溶けて小さくなっている子がいるような学校です。

 そこで色々なことを学べました。その中に、どんな子どもも皮一枚の差しか無く、みんな可愛い子どもであることを学べました。そして、みんな幸せになりたいと願い、必死に生きていることが分かりました。

 昨日の飛び込み授業の時もそうです。『学び合い』では集団の闇がもの凄く分かります。気になった子がいたので学校の先生に聞いたら、家庭的に課題を持ち、行動面に問題がある子であると教えてもらいました。

 1時間目、近くによりました、「期待しているよ」と小さく言いました。

 しばらくすると、他の子と一緒に答え合わせをしています。そこに近づくと私にきれいな目をして私を見ています。私はあくまでもその他大勢の一人としてちらりとしか見ません。でも、その目は私を射殺します。(この間は10秒ぐらい)

 1時間目の終わりに説教です。怖いぐらいに私を見ています。セオリー通り、ちらりとしか見ません。

 1時間目と2時間目の間に次の時間の予習をしています。

 2時間目の最初に語ります。そのこの目が入ってきます。見ないようにしています。

 2時間目開始、そのこの動きが違います。

 2時間目の終わりです。その子が「俺はやった見ていたよね」という目で射殺します。

 ちらりとだけ見ます。それで十分です。

 2時間の中で「その子」への関わりは1分も時間を与えていません。そして、その3分の2以上はその他大勢の一人しか視線を与えていません。私がやったのはあくまでも全体に対する見取りであり、全体に対しての言葉がけです。

 でも、私は苦しいのです。『学び合い』だと、その子が必死に生きようとしていること、必死に幸せになろうとしてることが感じられ、それを感じると責任に押しつぶされるようになります。

 そして、2時間の授業の中で、そのような視線を私に向けてくる子どもが約百人中三十数人ぐらいいます。その子たちは、頭を使って、その子なりの動きをしています。その子たちは私の説教の中で私を見つめ、うなずきます。その必死な視線を受け止め、でも、集団の中の一人として見なければと自分を律するのはかなりの精神力がいります。

 だからです。何もしていないようにしている『学び合い』の授業中、私は何度も会場から離れ、何度も後ろで休み、授業後もへとへとになるのです。子どもたちの一生涯の幸せを短期間でも背負うことはもの凄く疲れることです。

 目の前にいる子は、全てそうなのです。子どもたちが互いに支え合うようになればなるほど、楽になります。個々の子どもの幸せを背負うのでは無く、一つの集団の維持に力を注げばいい。だから、飛び込み授業はとても大変です。

追伸 西川研究室では、子ども全員にICレコーダを身に付けてもらい、言動を記録します。そして、その全てを分析します。それは学術的に一般性を出すために必要なことです。でも、わたしは、ゼミ生、その中には教員生活二十年弱のゼミ生も含めて、私と同じことを学んで欲しいと思うからです。それは、どんな子どもも皮一枚の差しか無く、みんな可愛い子どもであることを学べました。そして、みんな幸せになりたいと願い、必死に生きていることです。これは我がゼミでやっていることを学ばないと、また、私が経験した学校に勤めないと、何十年勤めてもそれは分かるのはとても大変なことです。子どもの人生を背負っているとはそういうことです。

追伸2 以前、我がゼミにある現職院生が所属し、最初の『学び合い』の授業で無様に泣きながら語りました。それは無様です。泣いてはいけない。でも、泣いたのは、上記に書いた『学び合い』での大事なことを分かったからだと思いました。ま、四十近くの教師も可愛いと思います。

追伸3 当然のことながら、模擬授業では、このような視線を教師に向けるわけありません。だからゲームにしか過ぎないのです。

[]残るもの 08:52 残るもの - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 残るもの - 西川純のメモ 残るもの - 西川純のメモ のブックマークコメント

 世の中には名人教師のDVDがあります。しかし、そこから学ぶべきものは、今後は違うように思うのです。

 もし、その教師の授業が素晴らしいのならば、その教師の授業を1年間記録し、それを写せばいいではないです?「そんなことはない」と思われると思います。私もそう思います。では、映像では実現できないものは何でしょうか?思い起こして下さい。次に、それが授業時間のどれぐらいを占めているか?そして、その恩沢に浴せる子どもの数は何人かを考えて下さい。その際に、子どもの名簿を横に置き、一人一人を思い起こして下さい。

 そうすれば、授業の殆どはDVDを見ることで十分であり、それ以外の部分もその恩沢に浴せる子どもの数はごくわずかです。

 となったとき、平均的な教師の授業を1年間受けるのと、名人教師の授業のDVDの映像を1年間見続けるのと、どちらが子どものためでしょうか?

 もちろん、今は映像はごく限られていますし、有料です。しかしです。名人教師が自分の授業の様子を子どもが写らないアングルで1年間記録し、それをネットで公開したらどうでしょうか?その教師が発問し、それに対しての子どもの声は聞こえます。もし、今の授業での教師の発問が数人しか出来ず、その発問によって他の子も学べるとしたら、それで十分ではないですか?

 書店に並ぶ本を読み直して下さい。そこに書かれていることの多くは、というかほぼ全て、その教師の授業を見せれば良いのではないでしょうか?違いますか?

 もちろん違います。では、映像では実現できず、教室という空間を共有している教師だけが出来ることは何でしょうか?

 このことを真剣に考える時期にさしかかっていると私は思います。インターネットが発達し、多様な良質な情報が無料で提供され、学習者がそれを選択できる時代です。タブレット端末が教室に持ち込まれるようになれば、早晩、成績上位層の保護者がそのような良質な情報を授業中に自由に使って欲しいと申し込むようになります。そうなれば、成績中位層の保護者はタブレットの方が良い授業だと判断するでしょう。

 その時に、教師はタブレットに勝てるでしょうか?今の教師の殆どは勝てません。

 では、タブレットに勝るものは何か?

 私は二つあると思います。

 第一は集団をコントロールすることです。第二は、実は第一と一対なのですが、学習者の心に炎を灯すことです。

 昨日の飛び込み授業では、「はいどうぞ」の『学び合い』です。私が具体的に全体に語った時間はごくわずかです。はいどうぞ以降に使った『学び合い』のテクニックもごくわずかです。おそらく1時間目は10回程度の5秒以内のつぶやきと、2時間目は2回程度の5秒以内のつぶやきです。

 授業中、子どもたちが勉強しているところから離れたイスに座っていると、「あの先生の語りは私には出来ない」と何人の方にも言われました。その度に、「でも、私の言っていることはごく当たり前のことでしょ?」とニコニコして応えます。でも、私の語りに何故力があるか?それは、私は自分の語っていることが、子どもの一生涯の幸せに確かに繋がっているという確信を持っているからです。その日の課題が出来るとか出来ないとかのレベルでではなく。そして、一期一会ですが、目の前にいる子どもたちの幸せを本気で願ったからです。

 おそらく「クサイ」とか「また、説教かよ~」という子どもがいるでしょう。当然です。しかし、「この人は本気で信じている」ということを感じ取る子どもも2割います。その2割は周りに影響力がある。だからたった2時間で集団を変えることが出来るのです。

 とは言うものの、殆どの人にとって上記は「剣の道は心」というような訳の分かったような分からない話です。だからまずは素振りです。基本動作を正確に繰り返すしかありません。そして、そのためのマニュアルを用意しています。そして、そのマニュアルには至る所に「心」を忍ばせています。最初は分からなくてもいいのです。でも、そのうちに気づいて欲しいと思います。そして生を参観し、授業者と対話して欲しい。それがインターネット・タブレットが発達した社会において残る教師の職能ですから。