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2015-06-13

[]論証 22:13 論証 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 論証 - 西川純のメモ 論証 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は基本的に個人特定される人に対して否定的な物言いは言わないようにしています。しかし、私自身が好きで尊敬できると思う方であると表明した上で、だからこそ、代表として事例を挙げさせていただきます。

 内田先生の記事をお読み下さい。http://president.jp/articles/-/15406(これは内田先生の記事であって、内田先生の文章で無いことは重々分かっています)

「大学の教育研究にとって得るものより失うものの方が多いということでした。」と主張されています。ところが、それを論証する文章で示される文章の主語は「教員」であって「教育研究」ではありません。本当は、その教員の負担が教育研究へどのように影響するかを論証しなければならないのです。それを書けないのは、どの組織でもアウトプット(この場合は教育研究)の大多数は一部が担っており、その一部は、そのような負担でもうまくやっていることを管理職の経験がある内田先生はご存じだからです。内田先生ご自身が管理職の激務の中でも、生産性を下げずにいたことは何よりの証拠です。

 学校教育の受益者は個人ではなく、共同体なのだ、と主張されています。しかし、共同体が受益をされている論証を見付けられません。論証無しで二極化を主張されている。しかし、一方、大学が廃止されればそれに対する予算が無くなることは確かなのです。

 内田先生の主張されていること、それには強く共感します。しかし、論証が無い。というより論証不可能なものなのです。強いて言えば、過去の歴史から傍証するしかない。でも、現状の日本の状況は過去に類例の無い状況なので傍証しきれない。

 で、何を言いたいか。人文系や教員養成学部への圧力に対して、その圧力をかけている人に不合理だと主張しても無駄だということです。むしろ内部にいる我々が圧力をかけている人たちに圧力をかけ得る人に対して、自らの存在意義をその人たちに分かる論理とデータで説得せよと、我々を先導する方々は語って欲しいのです。

 ばらばらの我々が外部に対して何も言えない。まずは内部を固める必要があると思います。

 もっと具体的に言えば、日経連、経済同友会の人が人文系や教員養成系は大事だと主張してもらえるような結果「も」我々は出さねばならないということです。そうでなければ、私の次の世代は生き残れない。

追伸 どの発展途上国も実学を重視します。それが先進国になればそれが緩みます。今、我が国が実学を重視し始めているのは、我が国は発展途上国に転落しつつあるということを意味しているのです。

追伸2 突っ込みどころ満載であることを理解した上で書きました。ようは「意」を理解して欲しい。その意図は、内部の皆さん、説明責任を果たしましょう、ということです。

[]評価システム 21:35 評価システム - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 評価システム - 西川純のメモ 評価システム - 西川純のメモ のブックマークコメント

 1+1=2のような簡単な計算ならば、正しいか正しくないかを判断することは比較的容易いです(が、一般に考えられるほど容易くは無いですが、それはさておいて)。

 人の価値観が入るものの判断は人がやらなくてはなりません。人文系学問、社会系学問はそれをせざるを得ない。これを判断する方法は、客観的に妥当性が認められる外部の「人」が複数で評価します。学会誌の評価システムはそうやっています。

 何を言いたいか、最近の人文系学部や教員養成学部を擁護の立場の方々が、それをやっていないのが気になります。今の政策決定をしている人たちにとって、それをやっていない意見は全く無視されるからです。

 教員養成系学部に関して言えば、それが意味あると判断できるという外部の人たちが複数で必要だと評価して貰えれば心強い。都道府県教育委員会が第一でしょうね。そして、教員ですね。

 では、都道府県教育委員会が地元の研修会に講師と呼ぶ人はどれぐらいの割合でしょうか?地元の教員が、その大学の教員をどのように評価しているでしょうか?そのようなデータで論証しなければなりません。その地域の教員をどれだけ養成しているかは、それほど重要な論拠になりません。何故なら、その大学が無くても、どこかがやってくれますから。その大学の教育が、地元にとってどれだけ意味があるかを論証しなくてはなりません。

 ということを、私より偉い研究者が主張してくれたらいいな。と思います。

 私より偉い内部の方々が、我々の業界で成り立つ論理で論証していることに不安を感じます。

[] 抑鬱 14:47  抑鬱 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク -  抑鬱 - 西川純のメモ  抑鬱 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 大人ですから、自分とは違う意見も尊重します。もちろん、その意見を発する人も敬意を持ってつきあいます。

 しかし、自信満々に『学び合い』を批判し、その根拠が教材論レベルで、一人一人の多様性、子どもの一生涯の幸せを含まない場合は、時に思ってしまいます。「てめーが、見捨てた子どもの末路がどうなるのか分かっているのか!十把一絡げみたいに「子ども」って言うな。一人一人違うんだ。自分の規格から外れた子どもを非民主的に扱うから、身を守るために反社会的になってしまったんだ。偉そうーなこと言うなボケ!」と思ってしまう時があります。

 その人は常識人であり、悪気はないのだとは分かっています。しかし、悪気ない授業のせいで、落ちこぼれる子どもの末路を嫌と言うほど見てしまった。それが私の教師としての原体験だから。そして、私自身が最後の最後に崖から突き落としてしまったから。そのゴチャゴチャが時に感情的な部分を噴出させてしまう。

 最近、別種な人たちに出会うようになりました。それもこの数ヶ月、全く別々な場所で。その様な人たちは、私のところに聞きに来るのですが、私が何を言っても反応がないのです。納得していない、そして情報を遮断している。だったら、私に近づかなければいいのに、離れないのです。そのような人と接すると、怒りより、我が身が汚れるような嫌悪感を感じてしまいます。

 この感覚はなんだろうと考えました。それで分かりました。「抑鬱」なのだと。

 何度も書きましたが、ロスは死の病に直面した患者が、どのようにして死を受け入れるかを観察しました。その結果5つの段階がありました。

 第一段階は、その存在を否認し、たいしたことはないと無視します。第二段階は、怒りで攻撃的になります。第三段階は取引です。第四段階は抑鬱です。そして第五段階が受容です。

 最初は馬鹿にして、次は潰そうとする。しかし、潰せないならばと現状との折り合いをつけようとする。しかし、それが不可能であることを理解し、攻撃も取引も停止する。しかし、受容が出来ない。

 今後、そのような人と接するのかと思うと気が重くなります。いずれにせよ悪気はない。本能的に身を守ろうとしているだけですから。

 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20100201/1264985646