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2015-06-16

[]ヒルベルト問題 19:59 ヒルベルト問題 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ヒルベルト問題 - 西川純のメモ ヒルベルト問題 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以下で書くことは私の身の丈を超えたものです。ホラだと聞き流して下さい。

 昨日、院生さんに「心がときめかない」と愚痴を言いました。

 私の論文が学会誌に掲載されたとき、心がときめきました。それが膨大になるとときめきません。学会賞もそうです。最初の教育書はときめきました。しかし、今は自らのときめきで書くのではなく、やるべきことをやっています。

 幸いになことに、私が研究者となってから追求し続けた「一人も見捨てない」に対しての解答を得たと私は思っています。私が見捨ててしまった子どもに対しての贖罪は出来ないけど、彼らの子や孫に対して埋め合わせは出来るのではないかと思います。だから、今後も学術論文も本も生産しつつけます。

 ただ、研究者として心がときめかない。

 でも、ありました。心がときめくこと。

 大数学者であるヒルベルトは1900年に23の未解決の問題を発表しました。それはその後の数学に大きな影響を与えました。的確な問いは、その問いを解決すると同じだけの意味を持ちます。

 教育学において最も未開拓な分野は「内容学」です。つまり、何を教えるべきかを明らかにする分野です。今でもあります。しかし、それは二流の自然科学、二流の社会科学、二流の人文科学だと思います。

専門家養成の基礎学力は何か?

 本当の専門家を育てるに必要な最低限の基礎学力とは何か?例えば、高木貞治の解析学概論を理解するのに、数学にフィットした子どもが事前に学ばなければならないものは何か?全ての子どもが同じものを学ぶ現状の単線型学校段階では考えられていないことです。これを様々な専門家で明らかにするのです。

全ての人の基礎学力は何か?

 これに関しては、私自身は成人にテストをして正答率を明らかにすれば自ずと明らかになると思います。

教科の陶冶価値は何か?

 例えば、私は数学、物理、体育の陶冶価値は、能力差を経験し、出来るからといって高ビーにならず、出来ないからといって卑屈にならないことを学ぶ教科だと理解しています。また、国語とは日本人とは何かを学ぶ教科だと理解しています。

 これはさらにミクロに分解できるでしょう。例えば、「何故、大造じいさんは残雪を撃たなかった?」という問いかけと、「大造じいさんは残雪を撃たないと決めたのはいつか?」という問いかけで学べるものはどこに違いがあるのか?という問いもあるでしょう。また、私個人として「あり、おり、はべり」を学ぶ意味はどこにあるのか?を分析して欲しいと思います。単純に訳するだけなら、機械翻訳で出来る部分はどんどん拡大します。

以下は教育学だけの問題ではないですが、教育学が中心になって明らかにしなければならないものだと思います。

人間の独自性

 今後、ロボットや人工知能で人間の仕事はどんどん変わってきます。次の時代での能力とは何か?それを育てる能力は何か?

幸せとは何か?

 幸せとは何かは各人の多様性がもっと広がる必要があるでしょう。しかし、その多様性を理解し、選択する段階では教育が中心となります。

人類社会の未来

 以上の結果として、国という単位が必然なのか?未来の共同体のあり方はなんでしょう?

 ざっと考えると、以上が私の考えるときめくテーマです。

[]厳しい年代 18:17 厳しい年代 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 厳しい年代 - 西川純のメモ 厳しい年代 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 日本の社会では年長者が権力を握っています。改革があるとき、抵抗するのは最年長者です。何故なら彼らは逃げ切れるから。おそらく、55歳以上は逃げ切れるでしょう。でも、五十代前半は逃げ切れない。二十代は新しい状態を前提に就職する。三十代は切り替えられる。そして切り替えが早ければ早いほど有利になる。可哀想なのは四十代。切り替えるエネルギーを持てる人と、持てない人がいる。持てない人は、時代に取り残された状態で十年以上も働かなければならない。

 私は大学改革でそれを実地に何度も見ました。今後は、それが小中高で起こるのでしょう。逃げ切りを決め込む管理職(正確には情報収集に汗を流すことをしない、つまり知らないという、消極的な逃げ切りが大部分)と、打って出る管理職がいるでしょう。管下の職員はそれを選べない。したたかな四十代もいるでしょう。でも、多くはない。

 本日は長野で講演しました。力が入りすぎて、途中で気持ちが悪くなったほどです。講座に来られる先生方に面白おかしく講演していますが、ニコニコした表情の裏で、私は参加した方々の顔を見て年齢を推測していました。そして、その先生方の今後を想像してしまったのです。それ故に力が入りすぎてしまいました。

 願わくば、管下の職員の幸せを考えられる五十代が増えて欲しい、と願いました。