■ [大事なこと]もしも
もしも『学び合い』が無ければ、ということを考えました。
そうしたら、今まで通りの授業に多少色づけすればOKとなるでしょう。だって、それ以外に定常的にアクティブ・ラーニングで求める認知的かつ倫理的な教育は出来ないから。
だから、それもたまに今の「言語活動の充実」のと同じぐらいの実践をしてアクティブ・ラーニングと言うだろう。それが大部分の教室でやるのだから、だれもとがめられない。そして今の「言語活動の充実」程度になる。
ところが『学び合い』があるため、満額をやる人や学校が出てくる。それが普通の教師、普通の学校でも出来るのだから、たちが悪い。だから『学び合い』が無い方がいいのかな、ともちらりと思いました。
しかし、現場がやろうとやらまいと文科省は関係ない。多くの教師がやらないであろうことは織り込み済み。そし、人口の1割程度の人はアクティブ・ラーニングを享受できると想定している。
大変なのは進学校と有名大学です。が、そんなところはアクティブ・ラーニングをやっています。それをやっていない研究室は業績を上げられないことはリッカートの示すところです。進学校は教師が従来型の授業をやってもそれを無視しています。ようは、そういうこところに予算が集中し、それを出来ないところが淘汰されるだけのことです。
そして、小中学校の場合、成績上位者の子どもと保護者から見捨てられるでしょう。教師が「言語活動の充実」をアクティブ・ラーニングであると言い張っても、受験に成果を出せないアクティブ・ラーニングなんて興味ないですから。そんな時代の時、ちゃんとクラス経営を出来る教師が日本の何パーセントいるだろうか?5%もいないだろう。だって、今の授業で教師がやっていることの大部分は成績上位者にとっては陳腐です。そして、受験に役立ちません。
結果としてエリートとその他の教育格差が大きくなる。そして、潰れる教師も多いだろう。だからエリート教育と矛盾しない、その他の子どもに対する教育を実現する意味がある。
だあら、一生懸命になって「言語活動の充実」をアクティブ・ラーニングであると言い張っている実践を滑稽に思います。でも、その人たちはアクティブ・ラーニングが逃げられない未来であることを知っているから、現状との折り合いをつけている。しかし、「言語活動の充実」をアクティブ・ラーニングでは無理だと早晩分かるでしょう。でも、アクティブ・ラーニングがそこそこで何とかなると思っている大部分の人はどうなるのかと思います。おそらく明治時代の士族のようになるのだろうな。
士族の中にも士族意識を捨てて成功した人が多い。そういう人を増やしたい。
■ [大事なこと]コメディ
人は既存の概念で物事を理解する。当然です。
それゆえ、既存とは全く違う前提のことは理解できない。
横から見ていると、「あ~、そういう風に言うよね」と思い苦笑する。
その異なった前提に出会ったとき、
最初はたいしたことないと思う。
次は、「そんなバカなことはない、だって・・」感情的に怒り出す。しかし、「だって」以降で語られる根拠が成り立っていないことを理解していない。
でも、自分が負けるしかないと理解すると、「今の自分でもいいでしょ?これこれはやるから」と取引する。
でも、取引不可能で、自分が変わるしかないことを理解すると、「知らない、分からない、何もしない」と思考停止する。
その後は、潰れて退職まで生き残るか、それなりに受け入れるか。
でも、一番良いのは情報収集し、守りではなく攻めること。
攻めるのが早ければ早いほど、アドバンテージがある。