■ [大事なこと]極限
私は最底辺の状態でもがいている子どもたちを見続けることが教師の原体験です。今は、あの頃の子どもたちに前に立っても、自信を持って教師のスタンスを保てる。
でも、一人も見捨てないということを極限に行けばどうなるかを考えます。
あと数日で死ぬ教え子がいたら、教師としてどう立てばいいのか?
肉親ならば抱いてやればいい。でも、「教師」つまり未来に繋ぐ職としてどう立てばいいのか?これはまだ答えのない状態で、定期的に私を襲う問いです。研究者の難儀なところは、極限までつめることを性としています。
『学び合い』に対して無理解な言説を、当然と思いつつも、ムカムカしている自分がいます。子どもたち全員の前に立って、何を語れるのかと。
追伸 書き終わって、考えました。答えが出た。仲間と繋ぐことです。考えてみれば、我々は皆しにます。でも、自分が死んだ後に繋がるものを意識して、節を感じます。な~んだ。もうどんな子どもの前でも、教師として語れる。
■ [お誘い]和歌山
上越教育大学教職大学院ではサテライト講座を行っております。その一つを和歌山でやります。お誘いします。(研究発表会を見てください)
http://www.nokamies.town.kimino.wakayama.jp/
1435183498*[大事なこと]教育学
戦後、常に拡大していた教育学の市場がもうすぐ崩壊します。今、教育学の研究者養成に関わっている人たちは、それを理解しているのかな、と思います。
理解している人は少なくないと思います。しかし、民主的な議論では、それらは潰されます。だって、民主的な議論で出来上がっているのは「今」なのですから。溺れる直前になるまで気づかない。だから、気づいている人は、各自で「ノアの箱舟」を作っているだろう。そう思う。
■ [お誘い]今日、明日
今日は朝日町、明日は京都。どちらもアクティブ・ラーニングについて語ります。あまりにもアクティブ・ラーニングに関して脳天気なので、ちょっと怖いことを言わねばと思っています。
圧倒的大多数の人は、「言語活動の充実」と同じ程度にアクティブ・ラーニングをとらえています。それ故、大多数の人は、何とでもなると思っている。そして、熱意ある人は自分なりのアクティブ・ラーニングを実践しようとしている。でも、それは「今」の自分の実践を、「アクティブ」という言葉の響きを加えたもの。
そんなものでは対応出来ない。