■ [大事なこと]判別法
今、色々な人や組織が、「アクティブ・ラーニングは今までの実践の延長上です」と言っています。
一部正しく、大部分間違っています。
たしかに、明日の実践は、昨日の実践と繋げなければならない。でも、重要なのはその実践が最終的に達成すべき能力を与えるか、どうかです。
1)「核戦争後の弊社の営業戦略を述べて下さい」のような答えの無い質問を、企業の人事担当から問われたとき、人文系の人でも十数分間議論出来る能力です。(ただし、これは人口の1割の人が必要な能力です。しかし、以下は国民全員が獲得すべき能力です)
2)就職してから、自分と年齢の違う人と一緒に働いて、「この人がクビになっては困る」と思われる能力です。
3)40代後半になって、新しい技術を学ばなければならないとき、耳学問出来る能力です。
4)クビになったとき、自分に新しい職を世話してくれる、自分の勤務先以外の人を持てる能力です。
5)諸事情でギリギリの生活に追い込まれたとき、生活保護という制度があることを教えてくれる仲間を持てること。そして、役所に一緒に行って、担当者から「あなたは働けるでしょ」とキツいことを言われたとき、自己効力感の落ちている人の代わりに、担当者に説明し生活保護を受けられるようにしてくれる仲間を得る能力です。これがあれば、餓死・自殺する将来の教え子を救えます。終身雇用が崩れる未来では、今のままの教育では餓死・自殺する人は増えるのです。
さて、今ある「アクティブ・ラーニングは今までの実践の延長上です」で上記が獲得できるでしょうか?おそらく無理でしょう。以上の能力は、特活やHRの時間だけでは獲得できません。学校教育の大部分を占める教科学習の時間でしなければなりません。「アクティブ・ラーニングは今までの実践の延長上です」と今言っている人や組織は、ことの重大性を知っているのだろうか?
今まで、小学校は「それは中学校の仕事」、中学校は「それは高校の仕事」、高校は「それは大学、職場の仕事」、大学は「それは職場の仕事」と先送りにしてきました。ところが、最終的に責任をもたされていた職場が、終身雇用の崩壊からそれを放棄します。従って、上記は小学校から高校・大学の責任なのです。
それがアクティブ・ラーニングで達成すべき「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成」の意味です。あれは建前論ではありません。
■ [大事なこと]幸せ
今後の社会においては、中途半端な普通高校に行くより職業高校に進学する方が有利です。ましてや、奨学金という借金を背負ってまで、中途半端な大学に進学するのは圧倒的に不利です。
これからの社会における子どもたちの幸せな姿は、以下の通りです。
高校までに一生涯添い遂げる伴侶と出会います。そして、二十歳ぐらいで結婚し、子どもを4、5人つくります。
夫婦共稼ぎです。夫と妻の両親は近くに住んでいて、二世代、三世代で子育てをします。
学校は地域コミュニティのコアになり、地域の人はそこに所属し、地域の発展に寄与します。
以上が子どもたちの7割、8割の幸せの姿になります。グローバル、グローバルと言われますが、そんなのは人口の1割もいたらいい。子どもたちの幸せはローカルにこそあります。教師が、大都市指向、高学歴指向の価値観を捨てる必要があると思います。
追伸です。
県教育委員会が県民の血税を使って東京大学に入学者を増やし、結果として都心部の人材養成をしているのか、私には理解できません。冷静に考えればお人好しすぎます。
■ [大事なこと]職業高校
私は上越教育大学教職大学院のカリキュラムに誇りを持っています。今後のジョブ型高校において、そのカリキュラムが有効だと思います。
まず、普通科高校に準じたカリキュラムをやめます。ジョブに直結した授業のみとするのです。もちろん、ジョブに直結しないものを否定するわけではありません。しかし、ジョブとの関連を意識できない段階に教えてもザルに水を流すようなものです。では、どうするか?
カリキュラムの中核は、地元企業での職業体験です。ただし、行きっぱなしではありません。週二日ぐらいのペースで、4ヶ月ぐらい行きます。
生徒は特定の先生のチームに入ります。その先生は、その高校でターゲットとしているジョブを20年以上経験し、実績を上げた人です。その先生ごとにチームを形成します。職業体験では、チームで入ります。そして、その中には、現職の人が入るのです。その人は、チームをまとめるための研修として参加します。
その職業体験を通して、数学を学ぶべき、英語を学ぶべきと感じた生徒は、選択科目で履修します。ただし、その多くはネットにアップされた教材をタブレットにダウンロードし自習します。そして、ネットを介して指導を受け、試験をうけるのです。