■ [大事なこと]才能
授業に関して才能のある方がいます。何の苦労もなく高レベルの授業が出来ます。例えば声です。何の力も加えずによく通る声を出せる人がいます。うらやましいな、と思えます。努力で授業能力を獲得した人は、才能のある人の授業を超えることはなかなか出来ません。しかし、負け惜しみかもしれませんが、努力で授業能力を獲得した人には強みがあります。
第一に、最高レベル時の授業を超えることはないですが、最低レベル時よりは相対的に高い授業が出来ます。才能の人は、一度歯車がずれると修正の方法が分かりません。何しろ自分の授業の仕組みが理解していませんから。努力の人は仕組みを自分で作ったので、修正の仕方が分かるのです。
第二に、才能の無い人、つまり圧倒的に大多数の人に授業改善の方法を示すことが出来ます。天才の指導は天才のみが出来ます。しかし、凡夫の指導が出来るのは凡夫です。
追伸 私は論文も本も人の十杯ぐらいの速度で書けますし、量もかけます。しかし、その方法は単純で公開しています。ただ、それをまねしつつけている人はまだいません。
■ [大事なこと]大人の戦い方
「多数決イコール民主主義ではない」という論をよく見聞きします。そのような論に出会うと、「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」というチャーチルの言葉を思い出す。
どんな主義であれ、方法であれ全ての人が満足するものなどあるわけはない、と私は思っています。多数決に勝ると確信する方法を私は見たことがありません。最大の利点は「単純」だからです。物事、複雑にすると誤魔化しが入る余地がいくらでも生じます。
私は教科教育学出身です。教科の背景とする学問には長い歴史があります。そのため新参者の教科教育学は攻撃しやすい対象でした。色々と思い出はありますが、印象的な事例を挙げます。
博士課程の学生を指導し学位を与える資格は博士○合と呼ばれます。上越教育大学の博士課程は兵庫教育大学、鳴門教育大学、岡山大学との連合です。博士課程に関する資格は4大学で決められ明文化されています。そして審査は4大学で行います。私はかなり以前から博士○合の資格を取れる基準がありました。ところが大学の理科コースで連合の審査会に私の業績審査の書類を出してもらえないのです。
理由は「博士の学位を持っていないから」という理由です。一見もっともな理屈です。博士の指導をする人が博士の学位を持っていないのは変です。しかし当時の理科教育学の世界で学位を持っている人は日本中にも5人もいないのです。それは科学の世界と違う教育学の事情です。その現状を打破するために博士課程を新たに立ち上げたのですから。なによりも公的に定められた規則とは別に、自分たちの恣意的なルールで教科教育学をつぶしにかかっていることが嫌でした。
どうしたか。相手が私を潰した理屈を徹底的に調べ、その理屈の言質を取ったのです。そして、その相手の土俵で勝負し博士の学位を取得しました。そして、博士○合の資格を取りました。とってしまえば圧倒的に勝ちます。ま、それが怖いから潰したのでしょう。
どうでもいい思い出話を書きましたが、ようは、大人社会で弱い立場のものはグダグダ愚痴を言うより、相手の土俵で勝つしかないのです。その際、相手の土俵を徹底的に調べ、確認する必要があります。そうでなければ土俵をいつのまにかすり替えるから。
「多数決イコール民主主義」ではないというならば、「多数決イコール民主主義」で勝って、その上で「多数決イコール民主主義」を変えればいいのです。それが良い悪いの問題ではなく、法治国家における合法的な方法はそれしかありませんから。
賛成する側も反対する側も、二枚腰、三枚腰で戦い続ける。その動的平衡点が、「その時点」の最適解だと思います。私が嫌なのは、決まったとたんに収束することです。そんな程度かよ、と思ってしまいます。