■ [大事なこと]成長
新人の頃は、私でも出来そうなことを積極的にやった。
しばらくすると、私でも出来そうなことが増えてきた。それを積極的にやった。
中堅になると、私だから出来る仕事が生まれてきた。そこを中心に仕事をした。
そうなると、私でも出来そうなことから手を引くようになった。結果として、「私でも出来そうな」人の仕事が生まれる。
ベテランになると、「私だけが出来る仕事」だけをやるようにする。
今、「私だけが出来る仕事」があることを恥じるようになった。
そして、「私でも出来る地域の仕事」をする老後があるのだと思うようになりました。これは一見退化ですが、成長だと思います。
と思えるのは、今は亡きボスと。今を支えている教え子たち・仲間のおかげです。
■ [大事なこと]敵
パラダイムシフト(今までと違うこと)を言ったり、やったりすると、右も左も敵ばかりに見える。大学院に入り、学術論文を出したとたんに経験した。私が客観的データに基づき某大学の教授の論文の指摘をしたのです。その教授は学会に対して感情的な書状を送りました。読みましたが、感情的なもの以外のものを見いだせません。
本格的研究者になってからは先輩諸氏からは「フィロソフィーがない」、「無節操だ」と言われ続けました。しかし、しぶとく論文を出し、業績を積み上げ、色々な学会から賞をもらうようになると風向きが変わります。
『学び合い』をはじめ、論文を書き、本を書きました。しかし、その反論は学会の範囲でした。そして、学会を超えて実践の世界に主張しました。そのとたんに、学会での反論とはレベルの違う嵐に遭いました。学会の非難は例外的なものを除けば、大人の対応です。ところが実践の世界の反論は感情的であり、子供じみています。大人の議論ならば対応も可能ですが、だだっ子の議論につきあう能力はありません。
それから時間がたちます。
だだっ子の議論をする人はだだっ子に過ぎません。だだっ子は集団を作れません。だから何の影響力も無い。振り返ってみれば、私には仲間が多い。
私のゼミ生は私に対して一般的な意味での敬意はありません。私とのゼミでは寝っ転がりながら私と議論している。それがゼミ生は普通です。で、その子とを指摘したら、ある学生は「我々は西川先生が大好きというわけでゼミに入ったわけではない」と私にニコニコしながら言います。そう言えることを誇りに思います。我がゼミ生は私ではなく、我々の目指すべきミッションに価値を感じたからゼミを選んだのです。
日本中には「だだっ子」に持てない仲間がいます。その方々はミッションを共有している。だから烏合の衆ではありません。目指すべきミッションを実現するために、誰に命令されることなく、自らの意志で行動する人です。そう考えると、私はなんと有利な立場にいるのかを思います。そう考えると、「だだっ子」の騒音に驚いたかつての私に笑います。
ようは正しいと思うことをみんなとやればいい。
大義は我にあり。