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2015-11-06

[]比較 21:12 比較 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 比較 - 西川純のメモ 比較 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は「教材研究は不要」と書くことがあります。しかし、「教材研究は無意味だ」ということを言いたいわけではありません。本当の気持ちは「教材研究はもの凄く大変だ」ということです。大学教師となって1単元分の教材研究を十年、二十年かけてやるのだったら出来るでしょう。しかし、様々な仕事をこなさなければならない教師がやれるレベルの教材研究だったら無意味だと言いたいのです。

 考えてみて下さい。教育実習中の学生が、教材研究のことを云々したらどう思いますか?

 私は「『学び合い』の方が簡単だ」と書くことがあります。しかし、「『学び合い』が簡単だ」とは書いていないと思います。書いていたとしても、その真意は「方が簡単だ」という意味です。

 従来型の授業はもの凄く難しいのです。だって、義務教育だったら東京大学に進学するかもしれない子どもがいる一方、知的な障害が強く疑われる子どもが分かる説明をしなければなりません。世の中に万人に受け入れられ、長く生き残る芸人が殆どいないのに、ネタを覚えたぐらいでクラス全員の子どもが引きつけられる授業が出来分けがありません。従来型の授業をするのだったら「簡単」です。しかし、全員に学びを成立させるとしたならば難しい。簡単に言えば不可能です。

 一方、『学び合い』も難しい。まず、自分の意識改革が必要です。そして、周りの無理解に対して説明しなければならない。これは簡単ではありません。しかし、不可能ではありません。『学び合い』では教師の願いを、ちゃんと説明しなければなりません。これは簡単ではありません。しかし、不可能ではありません。

 従来型の授業は不可能で、『学び合い』は困難なのです。だから、「『学び合い』の方が簡単だ」と主張しています。

 大きな職場だったら一定数は「なんで、あんな教師になったの?」という人がいます。だって、一職種としては教師が最も人数が多い。嫌な言い方ですが、ピンからキリまでいます。その教師の下に子どもがいます。家庭に戻れば家族がいます。その教師が戦力外になれば同僚は大変です。だから、何が何でも授業らしき形に持って行かねばなりません。

 さて、世の中でその教師が従来型の授業で、授業らしき形に持って行ける自信のある方はおられますか?『学び合い』は「一人も見捨てない」という覚悟があれば出来ます。そして、最低限のテクニックは1冊程度に凝縮できます。

 ちなみに、小中高の全ての教科の全単元の指導テクニックを「『学び合い』ステップアップ」(学陽書房)や「『学び合い』を成功させる教師の言葉がけ」(東洋館)レベルに凝縮することが出来ますか?いや、かつてそんな本がありましたか?無いですよね。

さて、どちらが簡単かは自明ですね。

繰り返しますが、もし子どもが静かにしてくれるならば、授業らしきものを成り立たせるのだったら従来型の授業の方が圧倒的に楽です。でも、これからの授業、賢い子が反乱します。だって、教師の授業より圧倒的に分かりやすい授業がネットで公開されているのです。裏でクラスメートを扇動し学級崩壊させたほうが勉強になります。そんな時代になるのです。ま、そうならない限り、私の言っていることは夢物語にしか思えないでしょうが。

追伸 当たり前のことですが、従来型授業で結果を出せる人は『学び合い』でも結果を出せるます。逆に言えば、『学び合い』で結果を出せる人は、従来型授業でも結果を出せます。何故ならば、教育で結果を出せる人は、学修者がやる気を出せるようにする人です。学取捨が学習する気になるか否かは、その人の細かいテクニックではなく、教育観の問題です。従来型はそれを間接的に対峙します。ところが『学び合い』はそこで勝負しているので直接的に対峙します。だから、辛い。でも、成長が早い。

[]国語教育 19:36 国語教育 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 国語教育 - 西川純のメモ 国語教育 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教育科学国語教育の12月号に『学び合い』の特集があります。お誘いします。

[]解決策 10:06 解決策 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 解決策 - 西川純のメモ 解決策 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』はものすごくシンプルな理論です。だから、それに基づく授業で起こるであろうことの一般性は高い。だから、起こるべき失敗は起こり尽くしています。そして、それに対してもがいて解決した人がいます。私はその人達から得た知識を整理し、本にしています。偉いな~っと思います。

 私は整理し、理論と繋げることをやっていますが、現実の問題に直面しもがいている人を心から尊敬します。『学び合い』が目指していることを理解できるから踏ん張れる。単に、「勉強が分かる」、「楽になる」、「みんなが仲良くなる」程度であれば、直ぐにへたってしまう。

[]陶冶価値 10:06 陶冶価値 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 陶冶価値 - 西川純のメモ 陶冶価値 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日の高校教育に関する私のメモに対して、「小学校で、音楽専科をしているものです。このような想像を広げるとき、音楽や図工、美術などの教科がどうなるのか、正直全く想像がつきません。職能につながる音楽科…。うーん。やっぱり必要なくなるのですかね。」というコメントをいただきました。とても大事なことだと思ったので、ここに書きます。

 まず、結論から言えば、今ある教科が大人になってから役に立つかと言えば、どの教科も役に立ちません。少なくとも万人が学ばなければならないという教科は何もありません。これは現在大人である保護者を対象としたアンケートの結果です。実は、同様な調査を教師にやりましたが結果は同じです。つまり、大人も教師も、学校で学ぶことは必須ではないことを知っています。

 私はそれはそれに関連する職業に就く場合も同じように思います。他は分かりませんが、少なくとも高校生物や物理や数学は大学で学ぶ生物学や物理学や数学とは似て非なるものです。あれを学ぶと大学での学習に役に立つのかと言われれば、「まあ、役に立つかな?」程度です。大学での学びに繋げようとするならば、大学で学ぶ生物学、物理学、数学を高校から学ぶべきだと思います。

 音楽の先生は役立つかを心配されていますが、ご安心あれ、全教科とも役に立ちません。

 では、いわゆる5教科と音楽との違いはどこにあるかといえば、入試に出されるか否かではないでしょうか?しかし、私が高校教育の妄想を書いた社会においては、5教科の入試知識を必要とする子どもはごく1部になります。だって、大学に進学することのメリットがないことが一般的になった社会のことを書いているのですから。

 そのような社会においては、その教科を学ぶ意義を教師は子どもに語らなければならないのです。音楽は以前からやっていましたが、5教科においても「入試に出るぞ」という理屈以外の説明を出来なければならないのです。

 音楽には音楽だからこそ学べることがあります。そのポイントは、誰に対して、何を達成したいかなのです。

 私の知っている最高の音楽の課題は卒業式での歌の課題です。それは「卒業生・保護者全員を泣かせるような歌を歌おう」です。とてもチャーミングでしょ。多くの音楽の先生が、このレベルの課題を考えられたら音楽は安泰です。

追伸 詳細は「子どもが夢中になる課題づくり入門」(明治図書)をご覧下さい。と宣伝する。

[]知的好奇心 07:19 知的好奇心 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 知的好奇心 - 西川純のメモ 知的好奇心 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は子ども達が餓死・孤独死することを本気で恐れています。今後の社会では今より遙かに多くなるでしょう。そのため学ぶことの意味よりもそれを強調します。しかし、学ぶことの意味自体を否定しているわけではありません。

 理系なので、直ぐに見積もりをしてしまいます。いわゆる第0近似、フェルミ推定をします。

 何らかのことに興味を持ち、特定のことを聞くと蘊蓄を語れる人は多いと思います。その中には、ワイドショウから情報を仕入れた芸能人情報に通じているというものも含まれます。これだったら人間の殆どのように思います。

 ただ、各人が持っている興味・関心は多種多様です。学校が扱っているものに興味を持つ割合は低いと思います。

 さて、第一の判断ですが、学校で扱っているものに興味を持つことと芸能人情報に尊卑があるか?です。私は尊卑があるとは思えません。人の興味は様々であっていいと思います。物理の教師が物理の楽しみを教えたいと思うのは自然ですが、それはヘビメタ好きの人が私にヘビメタの素晴らしさを教えたいと思うのと同じです。

 日本人同士がコミュニケーションを成立させるためには一定の知識・技能が必要です。例えば日本語は必要でしょう。しかし、日本語は使えるべきだと思いますが、日本語に知的な興味関心を持つ必要は無いと思います。

 つまり、人は知的な興味関心を持つべきだし、特段に何もしなくても何らかのものに興味関心を持つと思うのです。

 仮に十歩譲って、自分の教科で教えているものに興味関心を持たせることは大事だとします。それはやろうと思えば実現可能です。人が何に興味関心を持つかに最も影響するのは自分の属する集団が何に興味関心を持つかです。だから、集団をコントロールすれば、自分の教科に興味関心を持たせることは可能です。

 しかし、それがいいことかどうか悩みます。かつて私は大学で初等理科教育法という全学必修の科目を担当しました。そこでは学生さんが発表する科目です。私はありとあらゆる手を使って学生さんがそちらに向かうように集団を動かしました。結果として、大多数の学生さんが他の授業を休んでもその準備をするようになってしまったのです。若かった私はそれを誇っていました。しかし、やはり不健全です。

 いろいろ書きましたが、私の結論です。

 教師自身が知的な興味関心を持ち続けることは大事です。そうすれば、巧まずとも、それにフィットする少数の子はそれを受け取り、自らの意志でそれを深めるでしょう。