■ [大事なこと]フリースクール

ブルーオーシャン戦略も、破壊的イノベーションも似たようなことを言っているように思います。つまり巨大な既存組織は、一部顧客に喜ばれるようなどうでもいい付加価値開発の泥沼に陥る。ところが、巨大な既存組織からは見向きもされないような小組織が、巨大な既存組織からは手抜き・二流と思われる製品を生みだし、それが巨大な既存組織を駆逐する。
クリステンセンは、教育は国が管理している、つまり単一の巨大な既存組織で動かされているためイノベーションが起こりづらいと書いています。その通りだと思います。
私はフリースクールが公教育として認められたら、もの凄いイノベーションが起こるように思うのです。当初は不登校対策で導入されるかもしれませんが、その波及効果は劇的になる可能性があります。いやなるでしょう。
だから、抵抗も大きいだろうな、とも思います。
楽しみです。
■ [親ばか]ヨーグルト

息子の夕食の締めは私の膝の上でのヨーグルトです。
一昨日、息子は自分の席(和机です)にヨーグルトを持って食べました。家内が「お父さんの所じゃないの?」と聞くと、「高校生になろうとしているんだからここで食べる」と言います。私は少し残念(実際は大いに残念でした)が、まさか二十歳になっても私の膝の上で食べるわけではないのです。来るべきものが来たか、と思いました。
昨日は、ヨーグルトは食べませんでした。
本日は、当然のように私の膝の上でヨーグルトを食べています。
もうしばらく、続きそうです。嬉しい。
■ [お誘い] アクティブ・ラーニング時代の教室ルールづくり入門

2月4日に「アクティブ・ラーニング時代の教室ルールづくり入門」が出版されます(http://goo.gl/ZzxKkf)。
「アクティブ・ラーニングと教室のルールづくりが関係あるの?」と思われるかもしれません。しかし、アクティブ・ラーニングでは子ども達の主体性が発揮されます。つまり、任される部分が多いのです。その中で授業が成立するには、子ども達が自律的な集団に育てなければならないのです。
これは発想の大転換が必要です。何故なら、今までは教師が規律を「直接」正していました。ところが集団が主体的になれば、それは出来ません。簡単に言いましょう。いちいち指示する校長の下で主体的な職員集団が育ちますか?
「いや、子どもと大人は違う」とおっしゃる方もいるでしょう。しかし、それはアクティブ・ラーニングの真の意味を取り違えています。残念ながら、アクティブ・ラーニングとは主体的・協働的に学習することが目的であると思い込んでいる方はいます。しかし、主体的・協働的な学習を「通して」子どもを大人にすることが本当の目的です。
子どもを大人にするには、大人として扱い、そして、教師の管理下で失敗させ、子ども達がそれを乗り越えるしかないのです。
では、どのようにしたら確実に大人になるような失敗をさせることが出来るでしょう。そして、どうのようにしたら失敗を乗り越えられるでしょう。それが書いてあります。簡単に言えば、我々が「やるぞ」と思うような校長に我々がなればいいのです。
追伸 いつもながら、いち早く手に入れたい場合は、お近くの書店に注文するのが一番です。アマゾンは売り出し当初は混乱しますから。
■ [大事なこと]東大生

みなさんの多くは物理で悩まされたと思います。物理が分からないとき、物理の教師に聞きに行きましたか?おそらく、そうでは無いと思います。何故なら、授業と同じぐらい意味の分からない説明をすることが予想されるからです。だから、聞くとしたら友達の方がいいことを知っています。
東大生云々は東大を受験しよう、そして合格するであろう子にとって有効なのです。一般の子どもが東大生のノートをまねても有効とは限りません。もちろん絶対に無効だとは言いませんよ。東大生のまねをすれば良いというわけではないことは確かです。
今の教員養成、教員再教育は誤った前提で構築されています。それは、教師は出来れば出来るほど、分かれば分かるほど教え方はうまくなるという前提です。これは学術的に誤りです。我々は認知的距離が近い相手としか教え/教えられることは出来ないのです。出来れば出来るほど、出来るであろう子どもに教えられますが、逆に、出来ない子どもにはちんぷんかんぷんな教え方をしてしまいます。
『学び合い』では、そのようなことを前提としています。
しかし、意外かもしれませんが、『学び合い』は成績上位層の子ども、偏差値の高い子の方が強く支持します。
理由の第一は、教師の実力を大人の視点で冷静に評価し、見切れるからです。
理由の第二は、多くの人間が正しいか否かを判断する最大の基準は、「みんながやっている」、「みんなが信じている」という基準です。これは群れる生物としてはきわめて有効な基準です。多くの場合はこれが一番いい基準です。しかし、変わりえない生物は緩慢に死にます。生物は常に変化の目を内包していなければ行けません。集団の中にそのような人材がいるはずです。そのような人材は「みんながやっている」、「みんなが信じている」という基準だけではなく、理論で判断します。
振り子のオモリの重さが変わっても周期は変わりません。つまり、10gでも1tでも変わらないのです。これが変と思うのが普通です。しかし、世の中には計算してそれらが同じであることを納得する人もいるのです。そういう人が物理学者になります。そんなことが出来ないと、6次元や11次元の空間を考えることは出来ませんから。
そういう人は、東大生のような成績上位者の中に含まれる可能性が高い(全員では無いですよ。もちろん)。つまり、一斉指導だったら東大生はものすごい賢い子どもを教えるのは得意ですが、成績中下位者を教えるのは下手である可能性が高いです。しかし、東大生は『学び合い』を理解する可能性は高く、そうであれば、様々なタイプの子どもに対応できます。つまり、重要なのは受験の点数ではなく、理論で考え判断できる能力です。
追伸 東大生が云々という教育関係の宣伝があります。最近、照明も見つけました(http://panasonic.jp/light/led/dokusyo/?utm_source=facebook&utm_medium=cpc&utm_campaign=%2Flight_ME_E_F&utm_content=%2Flight_ME_E_F_LED&utm_term=%2Flight)。こんなところにまで東大生を引き合いに出しているのは、ちょっと変なように感じます。
■ [お勧め]静電気

静電気のパチリは嫌ですよね。冬に多くなります。
二つのことをすると殆ど感じなくなります。
ポイントは静電気をためないことです。
導電性スリッパを勧めます。最初に買ったときは1万円ぐらいしましたが、今は2600円ぐらいで買えます。静電気が発生する度に、床に流してしまうのでパチリとなりません。
もう一つは、車の乗り降りです。たいていは車を降りる際にパチリとなりますが、あれは、エンジンを止めて、腰をフロントガラス側からドア側に90度回転するときの摩擦で生じます。ドアを開けます。その後のポイントはドアの縁(つまり金属部分)を手で持ちながら腰を回転します。そうすると発生する静電気が高圧になる前に流れてしまいます。
お試しあれ。
■ [大事なこと]気にしないで

ADHDのお子さんをお持ちの親御さんに申します。
教師が何を言っても心配しないで下さい。どうせ、大人になれば落ち着きがなくても問題ない職に就けばいいのです(http://spotlight-media.jp/article/109570810469908344#/#showAll)。いや、大学だったら大丈夫です。まあ、出席の厳しい教員の時は寝てればいいのですから。学生の中にも、小中高でADHDを押さえつけていた学生がいます。
ただ、勉強はしっかり教えましょう。成績が良ければ、余裕がない教師も「特別な支援を必要な子」とラベルをつけられません。
全校の児童・生徒の数に占める、特別な支援を必要な子どもの割合を調べると面白いですよ。学校によって全然違う。どう考えても統計的には有り得ないほどの差があります。それは職員室の教育力を示しているのであって、子どもの特質を示すものではありません。
追伸 これを読む方の中には教師が多いと思います。もしかしたらご不快にさせたかもしれません。すみません。しかし、このメモは純粋に親として書きました。小学校3年まで知的障害と分類された私と、幼稚園の時に情緒障害と見られていた我が子のことを思い書きました。もちろん、本当に特別な支援の必要な子どもがいることを否定しません。でも、現状で特別支援の必要な子どもと分類される子どもの数はあまりにも多すぎる。
■ [大事なこと]ADHD

私の特別支援教育の本をお読みになった方はご存じだと思いますが、私は特別な支援を必要としている子どもの大多数は、教師集団に余裕がなくなったために生じたと考えています。余裕のある職場がある学校だったら「面白い子」と認識されるのに、余裕のない職場の学校では「困った子」になり、「特別な支援を必要とする子」になってしまいます。
フランスではADHDの発症率が極端に少ないそうです(http://tabi-labo.com/163141/adhd-2/)。私はその原因は、気にしないためだと思っています。
ちなみに『学び合い』を実践すると、その瞬間からADHDは消滅します(レトリックですよ)。何故なら、クラス全員がADHDになるからです。目立たなくなるのです。ADHD傾向の子どもに静かにしなさいと言っても無理です。そうなると、叱ることになります。そして小学校高学年に気づくのです。教師の声よりも大きな声で怒鳴り返せばいいことを。ADHDは社会性とは関係ないのに、今の教育が反社会性に結びつけてしまいます。『学び合い』だったら、そんなことないのにな。
『学び合い』では「座りなさい、静かにしなさい、ノートを取りなさい」とは言いません。その代わりに「動いていいよ、相談してもいいよ、でも、全員が分かるようになろう」と言います。ADHD傾向の子ども以外でも、元気な子どもにとって受け入れやすい。
私がそう言うと、大人になったとき静かにしなければならないときがあります。そのために学校で教えるべきです。とおっしゃる方がいます。
でも、45分間以上、じっと静かにしなければならないことってあります?
私の知る限り、祝儀の主賓挨拶と不祝儀の読経の時ぐらいです。そんなの希です。そんな時のために、多くの子どもに負のラベルをつけることが合理化されるわけありません。