■ [大事なこと]定義
定義はとても大事です。例えば、小学校の総合的な学習の時間の目標は以下の通りです。
『横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。』
中学校は以下の通りです。
『横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。』
高校は以下の通りです。
『横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身 に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の在り方生 き方を考えることができるようにする。』
とほぼ同じです。
さて、全てに共通する「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し」の主語は誰でしょう。明らかに子ども一人一人ですよね。しかし、そんな総合的な学習の時間をやっているところ、どれだけあるでしょう?
明らかに教師が徹底的に教材研究をして、あるラインにのせて、見事にハッピーエンドとする授業が褒めそやされています。それらは「教師」の総合的な学習の時間にはなっていますが、子どもの総合的な学習の時間にはなっていません。
中央教育審議会でどんなに理念を練り上げても、それを読む教師は殆どいません。学習指導要領も読む教師は殆どありません。そして、いきなり降りかかってきた「総合的な学習の時間」を既存の枠組みで解釈して実践します。子ども一人一人が「自ら課題を見つけられる」とは端から思っていない教師が総合的な学習の時間を実践すればそうなります。
アクティブ・ラーニングも同じです。
アクティブ・ラーニングは多様だ!と主張する人は多い。私もそう思います。しかし、多くの人は、「だから私の昔からやっている実践もアクティブ・ラーニングだ」と主張し免罪符として利用します。
アクティブ・ラーニングの定義は以下の通りです。
『教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。』
思いつく限りの方法を列記し、「等」をつけ、総称とまとめる。つまり方法は何でもアリです。しかし、方法は何でもアリでも、達成しなければならないことはあります。それは、「学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成」が成り立たなければ、それはアクティブ・ラーニングではありません。
認知的とともに倫理的、社会的能力も含めた汎用的能力であることがポイントです。つまり、数学の授業の中で、「君たちの姿は正しいだろうか?」と問えなければアクティブ・ラーニングではないのです。これは現在の教育とは根本的に違うものです。そして、社会、そして企業が求めている大人の基礎能力なのです。
また、一人一人違ったアクティブ・ラーニングがあると言うときの、一人一人の一人とは誰かと言うことです。残念ながら多くの教師は、教師だと暗黙に思っています。しかし、本当は子ども一人一人違うのです。それが定義にある「学修者が能動的に学修することによって」の本当の意味です。だから、教師が一律の方法を押しつけた瞬間からアクティブ・ラーニングではなくなります。現状の総合的な学習の時間と同様に、教師のアクティブ・ラーニングになるかもしれませんが。
追伸 ま、もっともいずれにせよ政治です。その政治において一番大事なのは公文書の言葉をちゃんと使えることです。ただし、総合的な学習の時間の時間の時は、見事に中央教育審議会の精神を骨抜きにしました。しかし、今回はそう出来ない仕掛けがあります。