■ [大事なこと]高尚な議論
以前、こんなことを書きました。
学校教育に影響を与える研究にしたいならば、使える統計分析の手法は出来るだけ簡単にするべきです。
私の最初の学術論文では林の数量化理論の第3類、第4類を使いました。当時の教科学習の論文では頻度分析程度だったのに、名義尺度の分析を雨あられと使いました。そして、雨あられと学術論文の業績を上げました。しかし、それらは学校教育に何らの影響も与えません。当たり前です。「林の数量化理論の第3類によってこれこれの結果が出ました」と学校現場の先生に話しても、それは真言、例えば「ナウボウ・バキャバテイ・バイセイジャ・グロ・バイチョリヤ・ハラバア・ランジャヤ・タターギャタヤ・アラカテイ・サンミャク・サンボダヤ・タニヤタ・オン・バイセイゼイ・バイセイゼイ・バイセイジャ・サンボドギャテイ・ソワカ」を聞いている一般人と同じです。ありがたく承りますが、それによってその人は何も理解せず、従って、その人の頭を使った行動の変容はないからです。
だから、その後の私の研究では、基本的に論理が簡単な直接確率計算かその簡易版であるカイ2乗検定程度に抑えています。そして、分析結果で理解させるのではなく、モデルを理解させることを重点に置きます。簡単に言えば、たとえ話を使うのです。
何故、こんなことを話すか。
最近、ある方から教育課程企画特別部会の論点整理にある「深い学びの過程」、「対話的な学びの過程」、「主体的な学びの過程」、また、「学習プロセス」、「学習の過程」が今後重要な意味を持つのでは無いかと聞かれました。
私は、意味を持たないと申しました。何故なら、それらが何を意味するかを学校現場の教師が理解できるとは思えないからです。いや、それを議論している研究者だって、一致した定義を合意できるとは思えないからです。
「基礎的・基本的」という言葉は50年前からよく使われる言葉です。「基礎力・思考力・実践力」や「21世紀を行き来抜くための能力」や「キーコンピテンシー」だってそうです。言葉が踊っている段階では、会議の参加者はみんなで「そうだよね」、「大事だよね」と言い合っています。ところが、ひとたびそれらを具体化しようとすると百家争鳴になります。結局、言葉が踊る段階から進みません。
文部科学省、そして中央教育審議会はおおざっぱな方向性を示す以上のことは出来ません(逆に具体的に示したら怖い)。その言葉を様々な実践者、研究者が受け取り、様々な形で学校現場に提案するのです。そして、学校現場という市場で吟味されます。
追伸 アクティブ・ラーニングの特異性は、大学入試と連動させたところです。そして、労働派遣法、入国管理法と関わっている点です。ルールが変わっているのに、それが分かっていない人が、旧ルールで何とかしようとしています。悪いですが、滑稽です。
■ [お誘い]講演開始
3月と4月は講演はありません。ま、学校現場は死ぬほど大変ですから。
5月になると講演が始まります。本年度最初は5月24日に岐阜聖徳学園高校での講演です。例の基準を申しました。ま、ビビッて退却するかと思ったのですが、基準をクリアーしました。本気なのですね。ただ、この会は岐阜聖徳学園の小中高の先生だけにオープンされている会です。
次は5月30日の「新潟県高等学校進路指導協議会」の講演です。これも新潟県の高校の進路指導の先生方向けの講演です。
オープンな会としては6月4日の埼玉セミナー(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/kuro106ra/20160521/1463806613)です。
6月11日の柏市での講演です。これは柏市教育委員会のご厚意により、人数に上限がありますがオープンになっています。(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20160409/1460152502)
お誘いします。
■ [大事なこと]勤評闘争
勤評闘争に代表されるように、教師は自分が評価されることを嫌います。ま、誰でも嫌いますが、民間だったら当然のようにやられている評価なのですが。一方、自分が子どもを評価することは当然であると考えます。教師の評価によって命を絶つ子どもがいるほど教師の評価は絶対的な意味を持ちます。
教師に対して評価をする理由と、それに対して反対する理由があります。反対する教師が自分が評価する側にたつと見事に教師に対して評価する理由と同じ理由を述べます。
私は教師に対しても、子どもに対しても評価があるべきだと思います。ただし、二つの条件が成り立つとき、健全性が高まると思います。
第一に、外部評価を導入し、重視する。校長が教師を評価する、教師が子どもを評価する、いずれもお手盛りになる危険性があります。学習指導要領に準拠した基礎的なテストを実施し、その達成度を評価します。それによって教師も子どもも評価されます。同時に、出席率で評価します。ただし、点数ではなく基準以下の子どもがいるかいないかで評価します。
校長の評価も、教師の評価も形成的な評価、つまり、途中経過を教師、子どもに伝える意味を持つに過ぎません。校長は教師、教師は子どもに対して適切な評価をすることによって最終的な外部評価をクリアするための援助者の立場に立ちます。
第二に、評価者自身が評価されることが大事です。外部評価、その他の情報を評価される側に開示し、どの評価者の評価を受けたいかを評価される側が評価するのです。教師は異動初年度から異動希望を出せるようにするのです。教師も子どもが選ぶのです。
そんな無茶な、と思っているでしょうね。
しかし、上越教育大学の教職大学院ではこれが成り立っています。
上越教育大学の教職大学院は教育実習を中心としたカリキュラムを組んでいます。院生達は実習先から評価されます。学卒院生は教員採用試験で評価されます。つまり外部評価があり重視されています。
評価の多くはアドバイザーによってなされています。そのアドバイザーは1ヶ月に渡る面談期間で学生が決めています。そして途中で変わる権利があります。
ま、「大学院と学校は違う」、「そんなことをやったらこれこれの問題が起こる」という指摘はあるでしょう。私はそれに対していちいち説明することが可能ですが、それを全部書いたら切りが無いのでここでやめます。しかし、自分が校長から評価を受けたくないなら、自分が子どもに評価するときの理由を思い出して欲しいと願います。子どもにとって教師は、教師にとっての校長より絶対者なのですから。
追伸 日本の勤労者の圧倒的大多数は上司によって評価を受け、給料に反映されています。当然、教師に対して評価することは多くの人は当然と思っています。ところが、それがなされていないとしたら、その外圧の盾となっているのは、文部科学省や教育委員会だと私は思っています。敵ではなく味方なのです。諸外国の教育現場における評価はもの凄く厳しいですよ。