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2016-08-18

[]次 22:19 次 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 次 - 西川純のメモ 次 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 アクティブ・ラーニングが一段落した後の「次」は何だろう?と考えました。私の頭に浮かぶのは「よい子の反乱」です。これが起こったら学級崩壊・学校崩壊より、遙かに深刻です。従来型の教師は対応不可能になります。

 非常に嫌なことを書きます。

 江川達也さんが書いているように、教師になる人は成績トップの人ではありません。成績中の上の人です。その人たちの描く理想の教師、教師の業界で神のようにあがめられる教師、そのような教師を成績トップの子はせせら笑っているのです。ただ、彼らは賢いので反乱しません。なぜなら、教師以外のツールがなかったから。

 しかし、教師以上のツールがあふれる時代になれば、教師に従うメリットはないのです。そして従来型の教師が提供するものは、エリートへの道に資するものでないことがハッキリします。

 成績トップの子どもが礼儀正しく、賢く反乱すれば収拾不能です。

 歴史をひもとけば、反乱は農民の散発的に始めます。しかし、それらは組織だった正規軍に負けます。しかし、エリートがそこに参加するとき、正規軍が負けるのです。

 私のブログ、FBを長く読んでいないと意味不明かもしれません。すみません。

追伸 以上を恐れている教師は、ほぼ皆無です。子どもたちより、教師の方が権力があると思い込んでいる人ばかりです。私は教師人生最初にそれに気づくことが出来ました。これは今は幸運だと思っています。

[]野球部帝国主義 06:50 野球部帝国主義 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 野球部帝国主義 - 西川純のメモ 野球部帝国主義 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 普段は特定される対象に対して非難はしません。いらざる軋轢を生じますから。しかし、教師として怒りを抑えられません。この記事の範囲内という前提で書きます。

 野球部帝国主義には反吐が出る。

 営利目的の高校野球に反吐が出る。

 一番、怒りを感じるのは、「この種のことに関して決定権が何故子どもにないか?」です。子どもたちが「積極的」に断念すると意思決定をしないならば、コンテストに出るのが順当な筋です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160817-00010003-nishinp-soci.view-000

[]狂乱の次に来るのは何か? 06:28 狂乱の次に来るのは何か? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 狂乱の次に来るのは何か? - 西川純のメモ 狂乱の次に来るのは何か? - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今は、「アクティブ・ラーニング」のバブルの時期です。しかし、バブルははじけます。多くの人は必死になってアクティブ・ラーニングを理解しようとしています。やがて、その人なりの落としどころに落ち着きます。

 今、「アクティブ・ラーニングの次」を頭に描いている人もいます。

 その圧倒的大多数は「行きすぎた振り子は揺り戻される」、つまり、元に戻ると考えています。だから、しばらくクビをすくめて嵐が過ぎるのを待てばいいと思っているのです。(100%確実ですが、こう思っている人は、現在の学習指導要領の基となった中央教育審議会の答申を読んでいません。読んでいれば、振り子だなんて思うわけないですから)

 振り子は同じ範囲を行きつ戻りつします。ただし、それは振り子をつるしている位置が変わらない場合です。しかし、その位置が変わったことがアクティブ・ラーニングの本体であると理解する人も少数います。

 その中の大多数の人は、クラス・学校の範囲内で考えます。結果として、授業改善となります。

 しかし、ごくごく少数の人は、社会の変化の中の表れととらえます。そのため、社会との関わりで物事を考えます。私はそれが「アクティブ・ラーニングの次」だと考えており、そのような立場の人を増やしたいと思っています。

 私は「学歴の経済学」(学陽書房)を出しました。それに対して、ツイッターのツイートの中には、『学び合い』の私が無関係な本を出していることを違和感をもち、私が大丈夫かというツイートがありました。上記の意図が分からねばそうでしょう。私は授業改善ではなく、教育改革を狙っています。それによって社会改革を願っています。そうしない限り、全ての子どもを救えないから(もちろん教師も)。

 社会科学の研究者である私は二つのことを両立させねばなりません。それは多くの人がより理解できるようにする成果の生産、と、多くの人が理解できないようなその先を考えること。一方だけ出来る人は山ほどいます。不遜ながら、両方できる人はごくわずかです。

[]アクティブ・ラナーを育てることより 06:28 アクティブ・ラナーを育てることより - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - アクティブ・ラナーを育てることより - 西川純のメモ アクティブ・ラナーを育てることより - 西川純のメモ のブックマークコメント

 戦後、日本の経済・産業界は初等・中等教育における理科教育の振興を政府に提言しました。貿易立国日本のために科学・技術力を高めたいと思ったからです。理科教育への予算とそれはきわめて一致します。ところがしばらくすると急激にそのような提言は影を潜めました。その代わりに高等教育における理学部、工学部の振興を求めるようになりました。何故でしょうか?

 日本が必要な理科系の人材はそれほど多くはなくてよく、そのような人材は初等・中等で特別に何かをしなくても育つことを知ったためだとおもいます。だから、そのような人材が進学する大学へ予算をかけた方がコストパフォーマンスが高いのです。

 アクティブ・ラナーという言葉が出てきました。それを主体的・協働的な学習者と理解します。さて、子どもたち全員がそのような学習者になると思いますか?私は無理だと思います。「無理でも頑張る」という精神論は有害だと思います。むしろ、無理だということを認めた上で、どうするかを考えるべきだと思います。

 アクティブ・ラナーは特段の教育をしなくても一定数は生まれます。むしろ、積極的な教育をしない方がいい。なぜなら、教師の中でもアクティブ・ラナーの人は少ないからです。同僚を見回してください。本を読んだり、研修会に参加・主催したりする人がどれだけいますか?あわてて補足しますが、私は非アクティブ・ラナーがダメだとはもうしません。むしろ集団全体がアクティブ・ラナーだったら危ういと思います。

 さて、そんな非アクティブ・ラナーである教師が、アクティブ・ラナーにする教育が出来ますか?私は出来ないと思います。むしろ自分の鋳型にはめ込み非アクティブ・ラナーにしてしまいます。どうしたらいいか?

 アクティブ・ラナーは関係の中で生まれます。だから、非アクティブ・ラナーの集団の中にいて、集団としての課題を与えれば自ずと成長します。そのような中で主体的・協働的な若手が職場で育っているでしょ?

 さて、大部分の子どもは非アクティブ・ラナーです。その子たちはどうしたらいいでしょうか?アクティブ・ラナーの子どもに繋げればいい。全ての子どもをアクティブ・ラナーにすることは出来なくても、全ての子どもをアクティブ・ラナーに繋げれることが出来ます。それによって全ての子ども「たち」はアクティブ・ラナーになることが出来ます。