■ [大事なこと]本務
嫌われるし、𠮟られることを書きます。
以下で書くことは全ての教師、保護者ではないことを最初に申します。
漢字の書き順を教えたくて教師になった人はいないでしょう。三単現のsを教えたくて教師になった人はいないでしょう。しかし、教師の授業の大部分はそれが仕事。さらに、授業以外の書類書きが多い。明らかに、議会対策用の書類書きを書かされていれば嫌になるでしょう。私は子どもの成長に関わりたいと思う教師は部活動にのめり込みます。思い出してください。中高の学園ドラマの中で部活動がどれほどの割合を占めているか。中には授業場面が殆ど無い学園ドラマさえあります。
本学の大学院にも、部活大好きの教師の卵がいます。その人に「なんで中高の先生になりたいの?」と聞くと、「部活指導をしたいか」と言います。何か変です。中心的な本務ではない。もし、授業で十分に子どもの成長に関わったと実感できたならば、それほど部活にのめり込むだろうかと思います。
保護者にとって学校とは何でしょうか?保育園の意味合いが強い。幼稚園に入学させれば、一定時間は楽になる。その感覚が小学校、中学校に続いていく。土日も任せられれば、楽です。共稼ぎが広がる日本では致し方ない。
部活の問題は指摘されつつも、なかなか変わりません。
授業で満足できない教師と、保育園を望む保護者との利害が一致しているから。
教師が授業で満足できて、子どもたちが友達と図書館で勉強するようになればいいのにな。
■ [大事なこと]学術と実践
実践に役立つ学術はあります。しかし、それが実践に適応されて例はものすごく希です。研究者は現場の教師の勉強不足だと言います。違います。研究者が学術を現場の教師に分かるように伝える努力が少ないのです。
逆に、学術に役立つ実践はあります。しかし、それが学術に適用された例はものすごく希です。現場教師は研究者を変人だと小馬鹿にしています。勉強する気なんか無いと馬鹿にしているのです。違います。現場教師が実践を研究者に分かるように伝える努力が少ないのです。
なんともったいない。
学術が実践に適用されれば、学校現場の都市伝説の化けの皮がはがれるのに。
実践が学術に適用されれば、学会の言葉遊びの化けの皮がはがれるのに。
今から数十年で、教員養成系大学は徹底的に縮小されるでしょう。結果として、各教科別の教科教育の学会が立ち行かなくなることを危惧します。戦後、80年の中で培った教科教育研究の成果が消えていくことを恐れます。
■ [大事なこと]主体的
単純な理屈です。
アクティブ・ラーニングとは何であって、何のためにあるのか、それを語れない教師の下に、アクティブ・ラーニングとは何であって、何のためにあるのかを理解する子どもが生まれるでしょうか?
無理です。
アクティブ・ラーニングとは何であって、何のためにあるのかを理解しない子どもが、主体的な学びをするでしょうか?
無理です。出来るのは、教師の指示によって行われる活動を主体的(?)に出来る程度でしょう。
主体的という言葉は知っていても、そのイメージするものは人様々です。
主体的に「お勉強」の活動をするのを主体的と思う人はいるでしょう。
しかし、大人の意味で主体的をとらえている人もいます。大人の意味で主体的ならば、教師の予想を超えることをするでしょう。
私はアクティブ・ラーニングとは、子どもを大人にすることだととらえています。そうしなければ、餓死、孤独死すると考えています。これは思いつきではなく、客観的な事実からです(詳しくは「学歴の経済学」)。もちろん、全ての子どもが大人の意味で主体的になれるとは思いません。だって、大人社会でもそんなこと出来る人は多くはない。しかし、子どもであっても大人の意味で主体的になれる子どももいる。残りの子どもは、その子ども達に繋がれればいいのです。そして、その子ども集団が、未来の大人集団になる。
だから、私の本では、そもそも論を書きます。
でも、多くの人は、「そんなのはどうでもいい。まずは、これこれの活動をすること。」と言います。困ったことです。しかし、教育村の中での思考方法は今までそれでOKでしたからしかたのないことです。
■ [大事なこと]学び合わせるではなく学びあう
1997年の秋、私は大発見をしました。それは教師が邪魔さえしなければ子どもは学び合うということです(このことは「資質・能力を最大限に引き出す! 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編」(明治図書)に詳しく書きました)。
地元のある先生が見事な学び合うクラスを育てていたのです。私はどんな指導をしたかを調べました。ところが、その先生は何もしていないとおっしゃるのです。いろいろ調べ、考えました。その結果わかったのは、その先生は授業中に立ち歩いたり、相談したりすることを悪いこととは思っていなかったのです。邪魔しなければホモサピエンスは学び合うこと、この当たり前のことに気づきました。現在の『学び合い』の基礎です。
多くの先生方は、教師が何かをしないと子どもは変わらないと思っています。しかし、『学び合い』は子どもの中、いや、ホモサピエンスの本性を表出させればいいと思っています。だから、最小限の方向付けと、あとは自由を与えればいいと思っています。おそらく、『学び合い』の実践者と非『学び合い』の実践者の思考方法の根本的な違いの一つでしょう。
ネットサーフィンをしていると、アクティブ・ラーニングをさせようとしている人が多いですね。でも、教師が「させよう、指導しよう、仕組もう」と思えば思うほどアクティブ・ラーニングにはならないのに。
大事なのは、何故、アクティブ・ラーニングをするかを子どもたちに理解させ、任せることなのです。何故、アクティブ・ラーニングをするのか、それはどうでもいい、という人には永遠にアクティブ・ラーニングは出来ないでしょう。
ま、1997年の秋までは私もそう思っていました。
追伸 学術論文は以下の通りです。
西川純、萩原恵美(2001.6):継続的観察を基にした理科学習集団形成に関する事例的研究、科学教育研究、24、日本科学教育学会、122-130
ま、本の方が遙かにわかりやすいです。