■ [大事なこと]イノベーター

イノベーターの人でないと意味不明なことを書きます。いまさっき、ゼミ生から聞かれたことに対して応えたことです。
片桐さんの名言に「『学び合い』をやめる人は、『学び合い』を理解していない人」というものがあります。その通りだと思います。まずはたとえ話です。
路上でギターを弾きながら歌っている無名な歌手がいました。そこに二人の人が聞いています。一人はその人の歌が今までにない歌だったのでファンになりました。もう一人は、そのような歌を産みだした「その歌手」のファンになりました。
初期の段階は二人ともその歌手を応援します。ところがです。メジャーになるに従って、路上ではなく大きな会場で歌うようになります。楽器も音響も変わります。照明も使うようになるでしょう。大衆受けするような曲も作るようになるでしょう。
そうなると二人の行動が違います。前者の人は「路上で歌っていた頃のあいつが変質した」と言うようになります。そして、自分だけの歌手を探すようになります。後者の人は、その歌手を信じて、大衆化した歌のアルバムの中の「ある一つの歌」の中に自分が最初にファンになった歌手が変わらずにいることを見いだし、応援しつつけます。
商品が売れる課程を分析した購買理論でも、イノベーターが商品が大衆化するに従って買わなくなり、否定的な立場をとることはよくあることであると述べています。
さて、『学び合い』も同じです。『学び合い』にはコアの部分と、それを実現するための方法の部分に分かれます。今、『学び合い』は拡大することによって、方法の部分に多様性を持たせています。なにしろ初期の段階では変質した『学び合い』が広がらないように、方法は口伝のみにしていたのですから、今は全然違います。何故変えたかと言えば、コアの部分を理解している人が一定以上いるからです。
さて、『学び合い』を方法としてとらえている人にとって、大衆化した『学び合い』は自分の知っている『学び合い』とは違うと思うのは当然です。
しかし、『学び合い』のコアの部分を理解している人の場合は、大衆化してもコアは全く不同であることは自明です。そして、「一人も見捨てない社会と教育の実現」という願いの実現は道半ばである現実を知っています。それを願っているから汗をかいています。
イノベーターになる人は勉強熱心です。色々な方法を学び、多くの人はそれで一定以上の評価を受けた人です。その方法の一つとして『学び合い』を加えた人は前者となります。そして、方法をどんどん変化させるでしょう。そして、コアの部分に反する方向に進みます。
しかし、目の前の子どもの姿から『学び合い』に入った人は後者になります。その人は、自分自身は自分なりの高度な『学び合い』を実践するかもしれません。しかし、人に勧めるときは、大衆化したものを薦めます。何故なら、その人が実践できるようなものを実践できるような入門者は多くはありません。つまり、「一人も見捨てない」に反するのです。そして、そのような見捨てられた教師の下に多くの子どもがいるのです。
『学び合い』を考えとしてとらえるか、方法としてとらえるかの差です。
追伸 西川研究室は『学び合い』で運営しています。しかし、本で書いた方法論は「全く」使っていません。でも、それが出来るのは、西川研究室は『学び合い』を学びたいために研究室に入った人の集団であり、異学年の文化の伝承がなされている集団からです。直ちに一般化できないのは私が一番分かっています。だから、本に書こうとは思いません。