■ [お誘い]群馬の会
2月4日に高崎で『学び合い』の会を開かれます。私も講演します。お誘いします。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/take1_No12/20161226
■ [大事なこと]本性
苦労は人を優しくする、と言われます。が、本当ではないですね。
実際に、そのような方がおられます。例えば、お亡くなりになった、私のボスの根本先生、戸北先生はそうでした。でも、真逆に人もいます。前者の人は、「俺は苦労したから、そんな苦労をさせない」と考え、後者の人は「俺も苦労したんだから、おまえも苦労するのは当然だ」と考えます。苦労が重要ではなく、その苦労をどのように解釈するかという、その人の本性が分かれ目のように思います。
今の教育行政で指導的な位置にいる人は、従来指導型で実績を上げた方です。その方々は『学び合い』に反対派と言えばそうでもありません。その方々の中にも、一定数は推進派になってくれます。ある県の附属学校の教師を務め、出世街道をばく進し、県教育行政の実質的なトップを担い、現在、教育長のある方は、『学び合い』の推進派として汗をかいていただいております。ようは、どのような願いで従来指導型の実績を上げた方かが重要です。もし、『学び合い』の願っていることを願って従来指導型の実績を上げた方であれば、『学び合い』の本体を読み取れば推進派になるのは当然です。
カリスマ教師も同じです。どのような願いを持って、積極的に情報発信をしているかが重要です。『学び合い』が自分の積み上げたものを崩すものだと思えば、蛇蝎のように嫌います。しかし、『学び合い』の願っていることを願っているならば、応援してくれます。少なくとも非難せず、見極めようとしています。そして、やがて分かってくれます。
非常に分かりやすい見分け方をお教えしましょう。『学び合い』を非難する人は、「一人も見捨てない」という『学び合い』の本体について言及することは希です。あったとしても荒唐無稽と切り捨て、一人一人が違うことを前提とした「一人も見捨てない」を提案することは皆無です。少なくとも、今まで。つまり、「一人も見捨てない」ということを思わないし、可能とも思わないのです。
難しいけれど、それを諦めては駄目だ、と思う人は『学び合い』に可能性を見いだします。
■ [大事なこと]カリスマ教師
多くの若い教師がカリスマ教師に憧れ、その本を読み、研修会に参加し、カリスマ教師になろうとする。が、しばらくするとそれは無理だと思うようになる。
それ以降、三つに分かれる。
第一は、無理だと諦め、そこそこの授業を無難に勤める。なかには教科指導は諦め、部活に燃える。
第二は、カリスマ教師をアイドル化する。自分は出来ないが、それと接する時間は一体化し、自分もカリスマ教師になった気になれる。
第三は、別のカリスマ教師を探す。
『学び合い』はカリスマ教師にならなければ、という呪縛を解きます。
『学び合い』は、「一人も見捨てず」を願うならば、カリスマ教師などそもそも存在しないと語ります。子ども達全員に好かれ、子ども達全員が分かる教師などありません。教師になろうとするような子ども、そしてそれが大人になった人(つまり教師)の多くに好かれ、その人達が分かりやすいと思うような授業をしている人なのです。
『学び合い』は、「一人も見捨てず」を強く願い続けることが、一部の子ども達を動かし、その子ども達が集団を動かすことを知っています。もちろん、最初から「一人も見捨てず」を願えるわけありません。だって、そんな重大なことに正対して、失敗したときの重圧は大きい。だから、さまざまなノウハウを開発し、整理しました。それを経て、『学び合い』は願いであることがわかります。そして、その人なりの授業が生まれます。ま、コアである「一人も見捨てず」は不動ですので、ゴチャゴチャせずに、シンプルである点は同じです。でも、香りが違う。
追伸 私を指導教員に選んだ西川研究室のゼミ生に、「私のような教師になりたい?」と聞けば、全員が「ノー」と言うでしょう。私はそれが誇りです。
追伸2 そもそも、カリスマ教師は中堅前半までは限界です。仕事上の嫉妬は恋愛の嫉妬より強いものです。カリスマ教師として活躍し続けるためには、対外的以上に勤務校・地域での貢献しなければならない。それが出来る人は、ごく僅かです。出来なければ、潰されるか、子どもと直に接する教師を辞めるかしかありません。私は高校教師に挫折し、大学に逃げました。現場教師としては二流、三流であることを自覚しています。
■ [大事なこと]『学び合い』脳
一度、『学び合い』が腑に落ちると、『学び合い』以外の本を読むと、「それが全員にフィットしているの?」と突っ込みたくなる。難儀なものです。
多くの先生は、教科書を学べば、子どもはそこそこ幸せになると思っている。例外があることは知っています。でも、自分は無罪だと思ってる。
■ [大事なこと]数学
まずは、以下をお読みください。
http://news.livedoor.com/article/detail/12464340/
学校の算数・数学を数学を学ぶための教科と考えるか、算数・数学を通して人格の完成させるための教科と考えるか。
私も、「.0」を書いたら×とか、縦横高さの順番を間違えたら×ということは首をかしげる。ただ、私は算数・数学を人格を完成させるための教科だと思っているので、数学界の重鎮が言った言わないを根拠とはしません。
学校教育の指導内容を定めているのは学校教育法施行規則に根拠を持つ学習指導要領であり、それを定めているのは教科を背景としている学問も含まれていますが、それ以外もあります。
そして、学習指導要領には『「.0」を×にせよ』とも『「.0」を○にせよ』とも書いてありません。そのようなものに関しては、学校長の理解を得ているならば教師の裁量です。そして、教育全体が上手くいくためには、教師は子どもと保護者の理解を得るべきです。
フィールズ賞受賞の森さんの指摘の方が正鵠を得ています。森さんは『小数の「9.0」の解答について「出来るだけ簡潔な表現をしろ」という条件付きならば減点はあり得るとしながらも、条件なしでの減点はないと断言。』とあります。つまり、数学云々の上位に、教師がどのような指導をしたかを位置づけています。だから、教師がどのような指導をしているかを明らかにせず、ダメだと断言することは出来ないと思います。
だから、私も、「.0」を書いたら×ということに首をかしげますが、わざわざ数学界の重鎮を引き出して是非を論ずる必要を認めません。
結局、学校の算数・数学を数学を学ぶための教科と考えるか、算数・数学を通して人格の完成させるための教科と考えるかの違いです。前者の立場の人は、後者の立場があることを理解できないですね。