■ [大事なこと]手を抜く
杵さんの文章を紹介します。
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/makine45/20170115/1484443172
膨大な書類は以下の4つに分類できます。
●頭を使わなければならず、間違いがあっては大変な書類
●頭を使わなければならないが、多少間違いがあっても問題ない書類
●頭を使わなくても良いが、間違いがあると大変な書類
●頭を使わなくても良いし、多少間違いがあっても問題ない書類
それぞれに合った手の抜き方があります。実は、「頭を使わなくても良いし、多少間違いがあっても問題ない書類」が多くを占めています。そんなの適当に書けばいいんです。大学教員も膨大な書類を求められますが、大抵は「頭を使わなくても良いし、多少間違いがあっても問題ない書類」です。ですので、超適当(いや適切)に書きます。簡単です。昨年の書類の日付を変えればいいのです。そして、直ぐ事務に出します。とうことで事務に喜ばれています。事務にとっても「あればいい」書類なのですから。「頭を使わなくても良いが、間違いがあると大変な書類」は間違っては困るところはごく一部だけです。それは底だけチェックして、直ぐに事務に出します。等々
詳しくは「なぜか仕事の出来る教師の7つのルール」(学陽書房)をご覧ください。
ま、つまりね。忙しい、忙しいと言っていますが、それは忙しさを分析して、見極める知恵と覚悟がないだけのことです。それに『学び合い』の私の場合は、子どもが出来ること、すべきことは、全て子どもに任せています。だから、本学教員の平均の5倍の学生をゼミ生として指導し、膨大な本を執筆し、全国に講演できています。そして、私は「忙しい」と言ったことはないと思います。言っているのは「面倒くさい」だけです。つまり、意味を見いだせないが、しなければならない仕事があると、そう思います。
■ [大事なこと]権限
私が定時制高校の教師になり立ての時です。
私の授業を誰も聞いてくれません。そこで、「この科目は必修だぞ。つまり、落としたら留年だぞ」と言いました。私としては核兵器並みの最終兵器だと思っていました。
ところが子ども達は一瞬静かになり、そして全員で「落とせ、落とせ」と手拍子で連呼するのです。その瞬間に分かりました。一人ぐらいならば客観的な事実を積み上げて落とすことも出来ますが、全員を落とすことは出来ません。そんなことは出来ないし、そうしたら私の指導力不足を非難されます。
そして、分かりました。教師には何の権限もないことを。
それからは、子ども達に命令するのではなく、納得するように対話することを学びました。それを教師人生のごく初期で学べたことを良かったと思います。
でも、これは校長も教育委員会も同じです。絶大な権限があると思っている人が少なくないと思いますが、法規を読めば限定的です。法を守っている限り、何も手出しは出来ない。もちろん人事等で脅すかもしれません。でも、一定以上の人が反旗を翻せばそれも不可能になります。
■ [大事なこと]法規
「なぜか仕事がうまくいく教師の7つのルール」に書きましたが、平教諭も教育関係の法規は読むべきです。それを勉強すると面白いですよ。
とりあえずは、「教育基本法」、「学校教育法(施行令・施行規則を含む)」、「地方公務員法(施行令・施行規則を含む)」、「教育公務員特例法(施行令を含む)」、「地方高行く行政の組織及び運営に関する法律」、「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」、「国家賠償法」あたりは読むべきですね。
無味乾燥な文章ですが分かって読むと面白いですよ。
例えば、学校教育法第三十七条の11項には「教諭は、児童の教育をつかさどる。」とあります。それに対して、「校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。」とあります。さて、校務とは何か、これが明確ではありません。狭義には事務仕事ですが、教育課程編成も含まれるとしています。しかし、教育の主体は教諭であると11項は定めているのです。従って、関係法規、学習指導要領に逸脱する教育は監督の対象ですが、それらに逸脱しないものまで指導するとして、職務命令を出せるかと言えば大いに疑問です。絶対にやってはいけませんが、校長が「『学び合い』をやめなさい」と言ったとき、「それは職務命令ですが?そうだったら文章にして下さい」と求めたら、校長は引き下がりますよ。だって、法規に反しない教育をやめされる権限はないのですから。だから、法を知らない校長は軽く言うかもしれませんが、少しでも法を理解している校長だったら、もの凄く言葉を選んで求めるはずです。
また、国家賠償法も面白い。たった6条からなる法律です。しかし、これがあるから公立学校の先生方は身を守れるのです。理科や体育の授業ではどんなに配慮しても事故は起こります。残念ながら。その場合は、この法律があるから、民事の賠償責任は国や公共団体が保証し、個人として責任は問われません。怖いのは私立です。この法律の対象は公務員に対して適用されます。つまり、民事責任を学校が負う責任はないのです。これを知らない私立の先生は少なくないと思います。怖いことです。
■ [大事なこと]モデル
教え子がブラック企業に勤めてサービス残業を求められ、労務記録を改ざんすることを求められていたとしたら、どのようにアドバイスしますか?
教師は子どもにとって働く人のモデルです。働いている場面を見ているという点では、保護者よりもモデルになっています。勤務時間、休日無しで働いていることが正しいというモデルを教え子に与えていたとしたら・・・・
■ [大事なこと]理系
人工知能が発達する時代で、理系で生き残るのは無理です。生き残れるのは、極々僅かです。その人達がイノベーションを生み出し、多くの日本人の飯の種を生み出してくれるでしょう。だから、高等教育局、その後ろにある産業界がそこに重点を置くのは当然です。しかし、その人達はごく少数です。
理系の仕事をしている人のやっていること、それはルーティーン化しやすい。やっていることが非常に単純化できるからです。そして、そのことはビックデータを集めやすいのです。つまり、人工知能に置き換わりやすいのです。
未来の時代でごく普通の人が就ける人工知能に置き換わらない職業は、個人的な対人関係が勝負の仕事です。「その人たち」のビックデータはあっても、「その人」のビックデータを集めるコストパフォーマンスはないし、集めにくい。その人とつきあうためにどんな知識が必要でしょうか?位相空間論の話しで盛り上がれる人は少ないと思います。
圧倒的大多数の人は人文や芸術こそ学ぶべきだと思います。その中で一頭ぬきんでるとしたら理系の能力が必要でしょう。でも、理系の能力の高い人と繋がれれば、それも必要ありません。
追伸 文系の人は理系に対して過剰な拒否感を持つか、過剰な期待を持ちがちです。逆に言えば、理系の私は文系に対して過剰な拒否感を持つか、過剰な期待を持っているのかもしれません。
ま、自分は自分になるしかありません。それを乗り越えるとしたら、自分と違う人とつながり、自分の能力を拡大することです。
■ [大事なこと]キッパリと
勤務時間を意識して「定時に帰ってください」という校長がいます。でも、あれもこれもの仕事があり、帰るに帰れないのが現状でしょう。文部科学省は「時間外勤務はいけない」と口で言いますが、それを保証する仕組みや予算は保証しない。従って、都道府県教育委員会も脱法行為であることは十分に分かっているけど、口は出すけど何も出来ない。
問題を起こしましょう。そうしないと変わらない。
世の中には、一生涯平教師と思っている方がいますよね。だったら、授業関係以外はダメだったらダメでいいのではないでしょうか?
つまり、教育委員会からのアンケートや書類は間に合わなかったら「出来ません」と言いましょう。
部活動の指導は延々やらず、1時間程度で終わりましょう。
お金の徴収は「忘れ」ましょう。
勤務時間が終わったら帰りましょう。
そんなことを徹底する年長者がある程度生まれれば、周りもまねます。そうなれば、行政が重い腰を上げます。
まずは年長者が「授業の準備に手を抜けないので、書類を書く時間はありません」と校長に言ってはいかがでしょうか?授業が成立し、保護者からの支持を受けているならば、どんな校長や教育委員会も何も出来ません。
追伸 かつて私が大学の仕事では、色々な仕事を教科教育担当者が請け負っていました。私は年長者の先生に「我々は出来ないと言いましょう」と言いました。年長者の先生は「でも、それを我々がしないと学生さんに迷惑がかかる」と言いました。私は「我々は今の学生さんに責任を負っているだけではなく、未来の学生さんにも責任を負っています。いまシステムを変えなければ、未来の学生さんに迷惑がかかる。これ以上は無理です。だから、システムを変えるために、出来ないと言いましょう」と申しました。そして、「我々は出来ない」と言いました。それが正論であることは周りの先生も知っていました。結果として、比較的短期間にシステムが変わりました。とりあえずやるということは、実は無責任とも思えます。
■ [大事なこと]地方
「地方には仕事がない、だから大都市へ」というモデルも崩れています。
一極集中は工業化社会の構造です。脱工業化社会は多極化します。つまり、大都市だけに仕事があるわけではありません。もちろん限界集落には無いでしょう。でも、各地に点在する十万人規模の都市には仕事があります。もちろんふんだんにあるとはもうしません。しかし、それは大都市だって同じです。大都市には大企業があります。しかし、その社員の多くは非正規雇用なのです。
給与水準は大都市と地方では差があります。でも、大都市では地方では考えられないほどの住宅費を払っています。それに付随する様々なものにかなりを費やしています。結果として見た目の給与の差は殆ど無くなります。
インターネットの発達によって地方にあっても優れた製品であれば売れます。また情報であれば地方と大都市の差はありません。この傾向はもっともっと広がります。
日本のGDPの殆どはサービス業で。サービスは工業製品、農業製品と違って移動することは出来ません。例えば、ある散髪屋が安いからといって、それをネットで注文することが出来ないのです。価格では無く、場所が勝負ポイントになります。さて、サービスを受ける高齢者が多く、サービスを与える若者が相対的に多いのはどちらでしょう。
多くの県教育委員会は東京大学を含めた大都市の大学への進学率でしのぎを削っています。大都市指向のままの子どもが大都市に進学し、地元に戻ってくるでしょうか?それは優秀な人材を自らの血税を使って大都市のために育てていることではないでしょうか?
「地方には仕事がない、だから大都市へ」というモデルを崩さなければなりません。子どもはもちろんのこと、保護者に対してもです。保護者が胸を張って地元で暮らしなさいと子どもに言えるためにです。
そのためには教師は教材研究ばかりではなく、それ以上に上記のような社会の変化に対しての知識を持たねばならないと思います。自分の中学校区から通勤できる圏内にどのような企業があるかを知らねばなりません。脱工業化社会における農業、漁業、林業の姿、つまり量や価格で勝負するのではなく、イメージやロマンで勝負する第一次産業の姿を持っていなければなりません。それを義務教育の段階で子どもと保護者に十分に伝えなければなりません。
そして、親兄弟と一緒に子育てを出来るために安心して共稼ぎが出来る。子ども時代を一緒に過ごしたもの同士が仕事を紹介し合う。そんなコミュニティが出来れば、大多数が豊かになれる。
ということが県教育委員会が気づかないのかな?と思います。ま、しばらくかかるでしょう。だから、まずは分かった教師からはじめましょう。それによってだんだん増えていく。
追伸 大都市に進学し、大都市で生活すべき人材もいます。しかし、その数は数パーセント以下だと思います。
■ [大事なこと]進学率
大学進学率は東京と地方では2倍の開きがあります。これは、大学に行く機会が制限されているという見方も出来ますが、行かなくてもいい大学に行かないという見方も出来ます。「学歴の経済学」に書いたように、今や大学進学はリスクの高い投資です。4年間という時間と500万円というお金をかけて、非正規雇用になるのです。東京の大学進学した子どものかなりの部分は、大学に進学せず高卒で働いた方が良かったかもしれません。進学したために500万円の借金を抱えて途方に暮れている子どももかなりいます。と考えると、地方は正しい判断をしているかもしれません。
「中卒より高卒、高卒より大卒、同じ高校・大学だったら偏差値の高い方がいい」という今は崩壊しているモデルを捨てなければなりません。