■ [大事なこと]大人の話法

私は膨大な人と日々つきあっています。そのため、つきあい方にもルールがあります。大人の話法を守れる人とはつきあいますが、そうでない人とはつきあいません。簡単なことです。ネットではなく、直にあったときと同じつきあいをしている人を「大人の話法」と申します。直にあったときには、そうしないであろう攻撃的な態度、なれなれしい態度をするかたとつきあうのは疲れます。そのような方とはつきあえません。そのような態度をしない方とのつきあいにエネルギーを費やしたいので。
我がゼミ生に関して基準があります。基準と言っても一般常識的には緩いものです。
在学中のゼミ生に関しては、とにかく許し、受容します。
が、卒業・修了したら大人のつきあいです。
2回までの不誠実は容認します。が、3回目には関係を断ちます。ま、メール等でブロックするだけのことです。ただし、直に私の所に来て謝った場合は許します。
これを三十年間、続けています。幸い、ゼミ生でブロックしたのは3人だけです。1%ぐらいです。
■ [親バカ]息子の日

昨日は、一般的にはこどもの日ですが、我が家では我が子の日の前夜祭です。そして本日は我が子の日です。17年前の16時半に生まれてくれました。ありがたい。昨日は寿司とピザを食べたいと息子は言いましたが、本日はステーキです。言うまでもないですが、明日は後夜祭です。
■ [大事なこと]苦労

「苦労は人を優しくする」は嘘ですね。少なくとも常に正とは言えません。
苦労した人には二種類います。
第一に、「俺は苦労したから、おまえには同じ苦労はさせない」という人。第二は、「俺も苦労したから、おまえも苦労しろ」という人。経験上、第二の人の方が多いですね。もちろん、あからさまに「おまえも苦労しろ」とは言いませんが、心の中でそう思うから改善する何かをしない。「まあ、しょうがないね」レベルを含めれば99%は第二の人です。
でも、第二の人は損な生き方だと思います。何故なら、そのような生き方の人のために若い人が手伝ってくれるとは思えません。
私は第一の人を上司に仰いでいました。そのため、生きやすい大学人の人生を歩みました。そして、その方のために徹底的に尽くしました。学会では軍団と言われるほどの鉄壁の関係でした。
私は上越教育大学連合教職大学院では我が儘放題です。何故、我が儘が通かと言えば、今のメンバーの殆どの採用・昇任に関して、私が徹底的に政治をしたからです。そして、今でも、私がやるべきことに関しては徹底的にやり、圧倒的な成果を組織に与えているからです。
「俺は苦労したから、おまえには同じ苦労はさせない」は徳ではなく、得です。
言うまでもなく、『学び合い』のセオリーです。
■ [大事なこと]間合い

学生から子どもとの間合いを聞かれたら、「それを全員にずっと出来るか?と考えて、出来る範囲が適切な間合い」と応えます。
私が高校教師だったとき、1時間に全員に一言をかけることをしました。その多くは「よっ」と一声かける程度です。全員にかけることを徹底するために、名票にチェックをしました。その結果分かりました。この程度でも大変だということを。
私は高校教師の時から、「公平」であることを大事にしていました。そのため、自分なりのルールを設け、明文化するようにしていました。
青春ドラマ的な教師はこれから外れます。
以前に書いたことをもう一度書きます。私はルーキーズという映画が大嫌いです。
だって、全編の中で主人公の教師が担当の現代国語を教える場面が全くありません。学園ドラマなのに・・・・・。教科学習は感動には縁遠いと思われていることを端的に表れます。だから、教師の中には部活の顧問をしたいために教師になりたい人もいます。また、中高の教師の中には授業は半ば捨てて、部活に燃える人もいます。
さらに映画のラストには十人の部員たちに切々と語り、部員たちは教師に切々と語ります。感動の場面です。でもね、変じゃないですか?例えば、小中高の担任が卒業式の後、クラスの中の3人だけを残して、「お前たちは俺の夢だ」と切々と語っていたとしたら、どう思いますか?
これは現状の理想の教師像は、親兄弟をモデルにしているからです。でも、親兄弟のモデルの教師では三十人のクラスの教師にはなれません。依怙贔屓が起こります。しかし、依怙贔屓を受けた子が教師になるため、その矛盾を感じず、再生産が起こってしまう。
例えば、運動部での体罰は絶えません。理由は、その体罰をありがたがった人が、部活の顧問になるからです。