■ [大事なこと]楽しい
『学び合い』の授業を参観することは楽しいです。飽きません。理由は4つほどあります。
第一に、子どもたちが自分を出します。一人一人の子どもの中にあるものが見れるのが楽しい。そして、それらが組み合わさったときドラマが生まれます。それを見取り、解釈するのが楽しいのです。まるで推理ドラマを読んでいるようです。
第二に、『学び合い』の授業だと教師同士の『学び合い』が出来るのです。例えば、子どもを見取って、「あの子にはこんな課題があるのではないか?」とか、「あの子とあの子の関係は・・・・」という私なりの見取りを、そのクラスの担任の人と話し合うと自分のみとれたところ、見とれきれなかったところが分かります。そして、私のみとれなかったところを他の人から学べるのが楽しい。
第三に、子どもたち、先生方が幸せそうにしている姿を見ていると、共感できて私も幸せになる。
第四に、そのクラスの「闇」が見えたとき、自分が何かをしなければならないことを思い出し、自らに鞭を打つことが出来る。
■ [大事なこと]退屈
昨日、本日の両日、ゼミ生の教育実習を参観しました。指導教員バカですが、なかなかのレベルの一斉指導をしていました。中には、このままで力量のある中堅教員といっていいような子もいました。ま、実習校の子どもがとてつもなくいい子ばかりでした。「どんな育てられ方をしたら、こうなるのだろう」と思い、その子の学んだ小学校、中学校の先生方に深い敬意を持ちました。
が、眠たいのです。
繰り返しますが、実習生の授業は上手い一斉指導だし、子どもたちの姿はほほえましい。でも、眠たいのです。
一斉指導なので、子どもの動きは少ない。結局、教師の姿を見ることになります。そして、上手い一斉指導だと、たいていは予想がつきます。「こうするだろうな~。あ、やっぱりね。」、「う~ん。こう来たか。なかなかだな。だったら、こうするかな。あ、やっぱりね」となります。使っているテクニック(本人はテクニックとして意識していないですが)は、ありふれたものです(でも、あのレベルまで自然にできたら凄いと思います)。
ですので、眠たい。
子どもたちは、この眠たさと戦っているのだろうか、と思いました。そして、気づきました。上手い一斉指導でこれなんだから、へたくその一斉指導だったら・・・・。と思いました。
■ [大事なこと]限界
昨日も書いたように、私が本に書いていること、それは『学び合い』を初めて1年ぐらいの人が、安全に確実に成功するためのことを書きました。『学び合い』を実践し、身体化された方の場合は、その人なりの変化をします。守破離の破離です。
私の本に書いた基本からの逸脱には2種類あります。それは、その逸脱が何のためだかです。1つは、その日の授業、その1年の授業のレベルのことを想定する方もいます。でも、その方は学校観の意味が分かっていない。私が気にしているのは、その子がその学校を卒業した後、その子が50歳、60歳、70歳の時は、その日の授業はどう繋がっているかです。
その違いは、子どもの様子を見れば一目瞭然です。少なくとも、その教室に行けば数分で判別できます。何故でしょうか?
『学び合い』のレベルを決めているのは、クラスの2割ぐらいのリードする子どもなのです。その子ども達が、どのレベルのことを考えているかで上限が決まります。だから、「このクラス(学年)の子ども達は◎◎だから、私が■■をしなければならない。」(伏せ字に自由に言葉を入れて下さい)という方のクラスでは、まさに、その通りの子どもが生まれます。■■を必要として、◎◎という限界を持っている子ども集団が生まれます。何故なら、クラスをリードする子どもが■■を必要として、◎◎という限界を持っている子どもになるからです。私はそんな■■を必要としていないし、◎◎という限界を持っていないと思います。
では、どうしたらいいか、到達すべき方向性を示し、その意義を語ることが教師の役目です。西川研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」(http://bit.ly/2k5Slzr)としています。もちろん、こんな荒唐無稽なことを本気で信じるゼミ生ばかりではありません。それでいいのです。しかし、「やろうじゃないか」と思うゼミ生も一定数はいて、リードしてくれます。
さて、我がゼミの目標(http://bit.ly/2k5Slzr)を読めば、「これは大学・大学院だから出来ることだよね」と思うかもしれません。違います。
今から十年以上前のことです。
古くからの『学び合い』の関西の仲間のクラスに遊びに行きました。いい雰囲気でした。授業の最後に「では、西川先生から感想をいただきたいと思います」といきなりの無茶ぶりです。事前に何もなかったので、ドキドキしました。しかし、『学び合い』のセオリー通りに、小学生でもゼミ生でも同じことを語りました。以下のようなことです。
「君たちは『学び合い』はどんな授業であることを知っている。勉強は分かるようになるし、人間関係がよくなることは実感しているだろう。でも、残念ながら、これを実践しているクラスや学校は多くはない。つまり、君たちが最先端なんだ。君たちの姿が○○市の教育を決める、○○県の教育を決める。そして、日本の未来を決めるのは君たちなんだ。」と語りました。そのクラスの担任は「また、西川先生のニシカワ節だね」とニヤニヤして聞いていました。
それからしばらくたって、そのクラスの担任の先生から連絡を受けました。それによれば、子ども達が一団になって担任にお願いしたそうです。彼らは「自分たちで話し合ったけど、私たちは○○市、○○県、日本を変えねばならないと思う。そのためには、自分たちの授業を多くの先生に見てもらいたい。だから、どんどん参観者を呼んで欲しい」と言うのです。
私が最後に数分語るだけで、これだけのことが起こるのです。
さて、上記の子どもたちのクラスと、「このクラス(学年)の子ども達は◎◎だから、私が■■をしなければならない。」と言われている子どもと、どちらがレベルの高い学習をすると思いますか?そして、彼らが50歳、60歳、70歳になったときに繋がるのはどちらでしょうか?
結局、教師の心が決めるのです。テクニックではなく。
追伸 このようなことを語るためには、自分自身が○○市、○○県、日本を変える「何」かをしていなければなりません。そうでなければ、大人の腹を読むのに長けているリードする子に見透かされます。