■ [お誘い]奈良の会
11月18日に奈良で『学び合い』の会が開かれます。お誘いします。http://kokucheese.com/s/event/index/485317/
■ [嬉しい]恩
家族との晩酌しながらNHKの小松政夫の自伝的ドラマを見ています。ボロボロ泣きます。家内はどんどんティッシュペーパーを私に渡します。
分かるのです。
私は大学院を終え、研究生を1年やって25歳で就職しました。
それ以来、直属の上司・先輩に恵まれました。
教頭先生のK先生、数学のS先生、社会のS先生、体育のF先生、国語のS先生にはお世話になりました。
大学に異動してから、N先生、T先生、W先生、N先生に守られて我が儘放題をしました。
私は上記の方々に対する陰口(酔っ払ったときも)をただの一度もしたことがありません。就職してから三十年以上、上司・先輩の陰口をただの一度もないことを思い出しました。そして、身の幸福と恩を感じます。
私が年長になり、年下の方々にどう思われるかは分かりませんが、受けた恩をモデルケースにしています。
■ [大事なこと]管理法
上越教育大学の教職大学院の制度設計は『学び合い』に基づいています。『学び合い』の研究によって、1つのミッションを共有するならば集団は多様性が高い方が望ましい結果をたやすく実現することを知っています。
例えば、一般の教職大学院の授業では、現職院生用の授業科目と若い学卒院生用の授業科目は別です。これは一般常識的には当然ですよね。だって、現場経験を十年以上ある現職院生は色々のことを知っています。それと現場経験がない学生が一緒に学ぶというのは、小学校1年生と中学校3年生がともに学ぶのと同じです。
しかし、上越教育大学の教職大学院では科目は同一です。これは設置当時、文部科学省から別々にするように指導がありましたが、本学教職大学院は協働力を高めることを中心コンセプトとしていることを説明し、了解を得ています。本学院生に別の大学院では、「現職員性と学卒院生が別々に学んでいるんだよ」と話すとビックリします。彼らにとって、一緒に学ぶことが当然だからです。彼らにとっては、「別々に学んで、何を学ぶのだろう?」と思います。
例えば、野球部を考えてみてください。
中学校1年と、2年と、3年では、天と地ほどの差があります。では、各学年を別々な練習プログラムで学ばせた方がいいですか?噴飯物ですよね。さらに、そんな練習をして、さて、2年、3年が混合したチームで対外試合が出来ますか?さらに、3年生が引退したとき、2年生が3年生の立ち居振る舞い、1年生が2年生の立ち居振る舞いを学べますか?
同じ場を共有した練習をしても、1年、2年、3年が学んでいるものは違います。それと同じように、現職院生と学卒院生が一緒に学んでも、学ぶことは違うのです。
教育実習で現職院生と学卒院生が一緒に同じ学校に入ることは少なくありません。しかし、両者の関係に本学の特徴が出ます。多くの大学で指導者と指導学生(教育実習の指導教員と実習生)の関係であるのに対して、先輩と後輩の関係です。つまり、現職院生も学卒院生も等しく大学教員の指導を受けるのです。これが出来るためには、大学教員が現職院生に比べて圧倒的に「実務」に関して勝っていなければなりません。ただ、多い少ないのレベルではなく次元が違っていなければなりません。
考えてみてください。三十代後半、四十代の教員が四十代後半、五十代の教員だからといって圧倒されますか?無理です。第一、そんなレベルの指導だった、大学院に来なくても学校現場で学べます。
世の中には実務で圧倒的な業績を上げている人はいます。地域地域での研究会では敬意を払われる人もいます。また、多くの書籍を出し、カリスマ教師と言われる人もいます。多くはないですが、かなりいます。逆に、学術研究で圧倒的な業績を上げている人はいます。大学教員の全てではありませんが、その一割程度はいます。ところが、両方を持っている人は殆どいません。学術論文の業績を持っているカリスマ教師、教師用書籍をドンドン出している学術畑(つまり実務教員ではありません)の大学教員を思い浮かべられますか?本学の教員は基本的にそのような人だけで固めています。
私が教職大学院を立ち上げる際、このスタッフ集めに一番エネルギーを費やしました。何故なら、組織が一度形成されると、再生産されます。上記のようなスタッフで組織を固めれば、そのようなスタッフ補充によって再生産されますが、そうで無い人を含ませれば、そのような再生産が起こり、拡大します。なにしろアカデミズムは上記のような人は少ないのですから。
私は県庁所在地もない地域で他大学の数倍の定員の大学院を充足させるには特殊性が必須だと言うことを主張しましたが、管理職に理解されました。
このスタッフの特殊性が、上記の上越教育大学の特殊性を成り立たせているのです。