■ [大事なこと]権力
「規格化」「分業化」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」の工業化社会では地位で人を動かせる。人事、予算が権力の源泉となります。ところが、今の時代、人事、予算で権力を行使しようとしても、妥当性、正当性が十重二十重に問われる。それが分かっていない地方行政、地方政治で汚職、グレーゾーンで責任が問われます。二十年前だったら、慣行で許されていたのかもしれません。それを若手の時、それを見ていた人が、それをやって失敗している。
「個性化」「総合化」「非同時化」「分散化」「適正規模化」「地方分権化」の脱工業化社会での力の源泉は、多様で多数の人的ネットワークだと思います。
何かをなそうと思う人は、それを積極的にすべきです。
追伸 これって、単発は楽なのですが。ずっと続けるのは意思・志がいります。
■ [嬉しい]多様性
今まで多くの方が上越に来られ『学び合い』を学び、一緒に酒を飲みました。その数も膨大なのですが、多様性も様々です。
幼小中高大の教師はもちろん、教頭、校長、指導主事、事務所長、教育長など様々な方が来られます。また、塾・予備校、民間企業、保護者、教員志望の学生、教員以外を志望する学生、子ども(この場合、酒は飲みません。ジュースです)、地方議会の議員の方々が来られます。私はその方々に、同じことを語っています。本当に『学び合い』のセオリーは普遍的です。
今回、本省のお役人が来ることになりました。多様性が一段と高まります。殺人的に忙しいのに、フットワークが凄いと思います。私とのディスカッションばかりではなく、遠路、上越に来られる方々とのディスカッションを楽しみにしておられます。
追伸 誰?って聞かないでね。呑み会の写真を見れば、分かる人には誰かは分かりますから。
■ [大事なこと]比較
文部科学省の「Society 5.0に向けた人材育成」(http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/06/06/1405844_002.pdf)と経済産業省の『「未来の教室」とEdTech研究会 第一次提言』(http://www.meti.go.jp/report/whitepaper/data/pdf/20180628001_1.pdf)が6月に相次いで発表されました。両方とも読んだ感想です。
両方とも書かれていることは重なっています。材料は同じですから、似たようなものになるのは当然です。しかし、両者には決定的な違いがあるように思います。
文部科学省の「Society 5.0に向けた人材育成」には基礎的学力、基盤的学力があることを前提としています。基礎的という言葉が20、基盤的という言葉が9あり、それらは学力と結びつけられています。経済産業省の第一次提言には今のところそれがない。その点で私は経済産業省の提言の方が好きです。(優れているとは申しません)
万人に等しく必要とされる基礎的学力、基盤的学力の存在を認めてしまえば、「公正に個別化された学び」の実現は不可能になるからです。
そもそも基礎的学力・基盤的学力なんてあるのでしょうか?研究者として断言します。一つの学会レベルであっても、会員の多くが同意する公教育における基礎的学力、基盤的学力なんてありません。ましてや、教育に関わる多くの学会が同意する基礎的学力、基盤的学力なんて存在しません。つまり、人が基礎的学力、基盤的学力という言葉を使っているとき、別々なものを思い浮かべている、同床異夢なのです。
もちろん、読み、書き、算は必要だと思います。しかし、それがどんどんと拡大しています。本当に基礎的学力、基盤的学力ならば、公教育で組織的学習をしなくても獲得できます。そのいい例は会話です。未開地域を思い浮かべて下さい。
現在も基礎的学力、基盤的学力は学習指導要領に盛り込まれています。しかし、それらは学術的データによって導かれたのではなく、各教科が大好きな人が集まった会での意見集約したに過ぎません。それらの会に集まった人達が同床異夢で基礎的学力、基盤的学力を述べれば両論併記、三論併記、四論併記・・・・になってしまう。私が教師の時「理科I」という教科がありましたが、見事に物理、化学、生物学、地学の4分割です。そんな併記によって基礎的学力、基盤的学力が決まったならば、子どもの学校にいる時間いっぱいまで拡大するのは目に見えています。従って、「公正に個別化された学び」は無理です。
そして、今の基礎的学力、基盤的学力さえ分からないのに、なんでこれからの時代の基礎的学力、基盤的学力が分かるのでしょう。
私はそんなのは無い(もしくは分からない)ことを前提にして、「公正に個別化された学び」を実現し、万人ではなく、その子どもにとっての基礎的学力、基盤的学力を、その子どもが見いだすべきだと思うのです。(この発想が『学び合い』です)
繰り返しますが基礎的学力、基盤的学力を前提とすると「公正に個別化された学び」は無理と私には思えますが、省内タスクフォースの皆さんがそれを乗り越える路を明らかにするかも知れません。
経済産業省は現在の公教育を背負っているわけではないので、自由度が高い。だから「浅く広く基礎を固めてはじめて、応用が出来る」という考え方を否定しています。しかし、我々は工業化社会で生きています。そして、工業化社会で勝ち残った勝ち組の人達が話し合うのですから、工業化社会のコードである「規格化」「分業化」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」に縛られています。今後、「でも、最低限の学力はあるよ」という風になる危険性があります。
経済産業省の『「未来の教室」とEdTech研究会 第一次提言』を読んで、もっとつっぱてもいいのにと思うのは、現状の公教育に寄り添おうとしている部分がそこかしこに読み取れるのです。
私は現状の公教育を必要としている人がいることを知っています。その公教育と連携した新たな教育を必要としている人がいることを知っています。でも、現状の公教育を全く必要としていない人がいることも知っています。
例えば、東京大学理学部の附属の学校を創るのです。学校教育法の縛りがきつい、小学校、中学校、高校ではありません(いわゆる一条校ではありません)。まあ、フリースクールみたいなものです。そこに入学した子どもは、大学の学部の授業をインターネットで視聴します。また、研究室に所属し論文を書くのです。知能検査や数学オリンピックでの実績で入学します。数学だけを学び、それ以外は本人が希望しないならば学びません。18歳になったら、理学部に入学するのです。学校教育法施行規則第百五十条七項でそれは可能です。それによって、小学校、中学校、高校を一度も行かずに東京大学卒になります。いや、これすらも既存の公教育に縛られている。その学校を卒業する人だったら東京大学に行かず、ダイレクトに企業に勤める道もあるでしょう。下手な東大生より数学的能力は遙かに能力は高いことは明らかですから。16歳でフィールズ賞を受賞し、16歳で東京大学教授になるかも知れません。
企業学校であるトヨタ工業学園、日立工業専修学校ももう一歩進んで、現状の公教育の「ふり」をするのを止めること出来るのではないでしょうか?
これが私の考える、新たな公教育の創造です。
私は『学び合い』脳で考えるので、バカげたことがどんどん思いつく。困ったもんだ。
我々は未来を見通すことは出来ません。でも、その変化は必然ならば、遅かれ早かれ未来は来ます。出来るならば、それが早く来るようにしたい。そのためには、多様な選択が可能なようにすべきだと思います。
追伸 私が今回の文章を読むとき、細かいところは読み飛ばします。その論のベースとなる前提、メンバーにとって当たり前すぎる前提を読み取ります。
追伸2 文部科学省の方、経済産業省の方、関係者の皆様。お気を悪くしないで下さいね。野人の戯言ですから。どうも、この手の妄想が好きなのです。でも、その妄想が当たるから、日本一小さな国立大学の一人の教師が始めたことが日本中に広がっているのです。