■ [大事なこと]次元
前川さんの面従腹背という本を読みました。本当は、出張中に読もうと思ったのですが、読み始めるとやめられず、あっという間に読み終わりました。
「前川さんは、一本気な人なんだな~」
「この本を読んだ現役文部官僚はいるだろうか?いたら、どう思うだろうか」
などなど、いろいろなことを思いました。
前川さんが個人の尊厳を大事にして、それが憲法の根幹だと考えられています。そして、それを守るために様々な方を駆使しています。それに対して、敵役の政治家は様々に運動します。絶対的正義はないですから、その方にも思いがあり、正義があると思います。
私が気になっているのは、どちらも細かいように感じるのです。政治家や官僚であるのだから法の条文に敏感であり、その威力をよく知っていると思います。でも、どんな条文であっても、その意味するものを解釈しているのは国民です。本の中にも書かれていましたが、ヒトラーはワイマール憲法の民主的な方法で政権を奪取し、独裁政治を気づいたのです。
西洋諸国が民主国家になったのは民主主義が正しいからではありません。民主国家が非民主国家に対して、軍事的に経済的にも勝ったからです。もし、個人の尊厳が大事にされているとき最高のパフォーマンスを発揮できる国民が育ち、それが日本を動かしているならば、憲法の条文がどうかわろうと、教育基本法の条文がどうかわろうと、日本の民主主義は揺るぎません。逆に、個人の尊厳が大事にされているとき最高のパフォーマンスを発揮出来ず、画一的で機械のパーツである方がパフォーマンスを発揮できるとき、国民は個人の尊厳を放棄することを選ぶでしょう。
では、前川さんの在任中、それを意識したでしょうか?本に書かれている様々な規制緩和は一見それにつながっているように思えますが、それは前川さんのヒューマニズムに由来するように思います。なぜなら、学習指導要領が個人の尊厳を制限していることを気づいていないように思えるのです。
つまり、最後に思ったのは、文部科学省の奥の院では、持続的イノベーションのレベルの戦いだけが行われており、破壊的イノベーションには至らないことを再認識しました。しかたがありません。文部科学省は「未来の教育」と「今の教育」を秤にかけたとき、後者に対する責任をとらざるを得ないのですから。
改善は出来ても改革は出来ない。なぜなら、改革すれば潰れる部分が生まれる。それを選択できないから。でも、改善ではおいつかないことを気づいている文部科学省の人も少なくないと思います。悩ましいところです。