■ [嬉しい]茗渓

何にも期待せず新しい大河ドラマを見ました。
途中から涙が出ました。私は馬鹿が大好きです。私は悪い意味で言う場合は愚かといいます。
私の卒業した大学の前身である高等師範学校の校長におられたのが嘉納治五郎というかたです。すみません。まったく、思い入れがありません。しかし、とてもいい人で、馬鹿です。この流れを我が身にあることを感じ、誇りをおもました。
これって、各大学にはあるんですよね。
■ [お誘い]『学び合い』大根の会

1月27日に東京都練馬区で『学び合い』の会が開かれます。お誘いします。https://kokucheese.com/event/index/550002/?fbclid=IwAR2Hu4oVWQt9TNji9CSjPkYMtqG0WqkNTtkY3amr7uLO42V67OoGP7uekEk
■ [お誘い]名古屋の会

1月19日に名古屋で『学び合い』の会が開かれます。お誘いします。https://www.kokuchpro.com/event/90f003417e71eca2e0945edd7fa678b0/?fbclid=IwAR2UGuWSy5X4c3HS-l2O7jpP3x3W1Gq43IHNkRr283Dgnn5qEOo56AUhY3M
■ [大事なこと]フリースクール

私がフリースクールといっても、どうも既存のモデルから想像されるのが自然です。ですので、ちゃんと説明します。
私がフリースクールに期待している理由は、個別最適化できるからです。
学習指導要領は基礎的・基本的な学力を保証しようとするものです。ところが、基礎的・基本的な学力は学術的な定義はありません。そのため、一人一人の善意の人が「これもあったほうがいいよね」と言い出すと、それを制限する手段がないのです。結局、与えられた時間の上限にまで積み上げてしまう。思い出してください。総合的な学習の時間が生まれたときの反発。総合的な学習の時間レベルで捻出できるのが学習指導要領で生み出せる個別最適化の最大限です。
これでは無理です。
従って、学習指導要領に縛られている1条校ではなくフリースクールに期待しています。「ネットを介したフリースクール」と私が言うと「N高校ですね?」と言われます。違います。N高校は1条校の縛りの中にいます。従って限界があるのです。
私の想定しているフリースクールのユーザーは、現状の学校教育に不満のある人です。その代表は、不登校の子ども、特別支援の子ども(おそらくは最初は情緒障害)、知的レベルが著しく高いギフテッドの子どもです。と私が言うと、3種類のフリースクールがあると思います。違います。
なんども書きましたが、「個性化」「総合化」「非同時化」「分散化」「適正規模化」「地方分権化」が脱工業化社会のコードであり、工業化社会のコードは「規格化」「分業化」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」なのです。工業化社会の人は、不登校の子ども、特別支援の子ども、ギフテッドの子どものフリースクールというと工業化のコードで考えてしまう。だから、3種類と考えるのです。
しかし、脱工業化社会は個性化の時代です。不登校と言っても一人一人違います。特別支援の子どももギフテッドの子どももです。それらに対してサポートできるのは互いです。だから、一緒にするのです。このあたりは『学び合い』が分かる人はすっと分かりますよね。
じゃあ、そのようなフリースクールは何を提供したら良いでしょうか?
授業?教材?
そんなのは本人がやればいい。ネットの授業や本屋に良質な授業、教材が溢れています。
そして、一人一人は目指すことが違います。高校卒業程度認定試験を通過し、東京大学に進学することを目指す子どももいるでしょう。ハーバードやミネルヴァを目指す子どももいるでしょう。一流の寿司職人を目指す子どももいるでしょう。フィールズを目指す子どももいるでしょう。地元の企業に就職することを目指す子どもいるでしょう。子ども同士の関わりの中で、東京大学を目指した子どもが寿司職人を目指し始めたり、その逆もあります。つまり、多様で動的なのです。
サービス、料金も様々です。おそらく、一定上の人が求めるようになれば、行政が補助を保護者に与えます。
では、フリースクールの教師は何をしているのでしょうか?
第一は、その集団が凝縮力を持ち、互いに支え合う集団であることを維持発展することです。
第二は、予算を獲得し、子ども達がやりたいことをやれる能力です。
第三は、ネットワークです。例えば、フィールズ賞を狙いたい子どもと、特色入試をしている京都大学の数学教室と繋げ、ゼミナールに参加させます。そのようなことが出来るネットワークが差別化になるかも知れません。
また、企業とネットワークを組み、高卒資格無しだけど、その企業が必要とする資格と実務経験を与え、その企業に就職させることもありでしょう。
さて、このようなフリースクールを実現できる、教育の理論と実践論は何ですか?
自明ですよね。
だから私の頭の中にあるイメージは以上の様なものです。
■ [大事なこと]16%以降

もし、フリースクールに学ぶ子どもが16%に達する前に公教育が脱皮できない場合どうなるか?ドラッカーの述べるように、既に起こったことをもとに予想する方法が有効です。
東京、大阪では、私立高校に進学する子どもに対して、学費負担が公立並みになる補助を行っています。これによって、公立高校の志願者が激減しています。
これが起こるでしょう。小学校、中学校、高校も。ようは学校に対して補助をするのではなく、学習者と家庭を補助する。その方が効率もいいし、変化に対応できる。
■ [嬉しい]臨床教科教育学会

昨日は都立科学技術大学で臨床教科教育学会が開かれました。昨年、会場校が高校になることを知って、「出来るのかな?」と思いました。そう思った自分を、今は笑えます。素晴らしかった。高校生の皆さんが実に素晴らしかった。研究の世界に入ってから四十年、様々な学会に出席しましたが、これほどサービスが充実した学会は初めてでした。
さらに、この学会を生徒の教育に生かそうとする高校の先生の知恵に敬服します。
そして、愚かにもこれほどのことは出来ないと思った私と違って、構想された高校の先生方、それを認めた校長先生に深く敬意を表します。
追伸 ある中学校の先生に「来年度は、おたくでやらない?」と言いました。その先生は「うちではここの高校生のようなことは出来ません」と笑っていました。私は「子どもたちは有能だよ」と笑いました。でも、こんなことを妄想できるのは素敵です。
■ [嬉しい]革命

私は公教育が自律的に脱工業化社会に対応できるとは思いません。しかし、子どもたちのためには脱工業化社会に対応できる教育に脱皮しなければならない。
どうするか?
基礎的・基本的学力の保証という呪縛から逃れるために、フリースクールに頼るしかない。そこで脱工業化社会の教育を実現するのです。あわてて付け足しますと、工業化社会の人は「どんな教育?」と思います。しかし、脱工業化社会は個性的であり動的なのです。だから、色々なフリースクールが生まれればいいと思います。
さて、このフリースクールがサポートしている子どもたちが16%の壁を越えるとパンデミックが起こります。しかし、そうなる前に公教育が脱皮してくれると期待しているのです。
昨日、個性的なフリースクールを創ろうという方に出会いました。私のヴィジョンを共有いただけたと思います。
追伸 16%壁を越える前に公教育が脱皮できないならば、破壊的イノベーションになるでしょう。でも、公教育は残ります。絶対に変わりたくないという16%のラガーとのために、細々と。そして、フリースクールの方が公教育になるのです。ただし主管官庁は文部科学省ではありません。そうなると文部科学省は16%の教育を担当する庁もしくは局になるのでしょうね。(ということに文部科学省の人に危機感を持ってほしい。政権から好かれてはいないのですよ。)