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2019-01-20

[]問い 22:11 問い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 問い - 西川純のメモ 問い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ツイッターで「学び合いをされてる先生っていつも悩んでいるように見えるんですが、何故なんですか?」という問いが流れた。理由は簡単です。子どもの未来、自分の未来を真剣に悩んで、槍つつけているからです。

[]違い 21:32 違い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 違い - 西川純のメモ 違い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 EdtechもICTも工業社会人と脱工業社会人では同じ技術の使い方が違います。工業社会人は全員に一律のサービスを使うことを求めます。脱工業社会人はそこに提供します。使うか使わないかは一人一人が決めるのです。これは工業社会人は受け入れがたい。

 この発想の違いは決定的です。

[]組合 15:33 組合 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 組合 - 西川純のメモ 組合 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 思いつきです。

「給特法を廃止する」というone-issueの教職員組合があっても良いのではないだろうか?

[]コード 15:14 コード - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - コード - 西川純のメモ コード - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は理科教育学で経済発展をさせるにはどうしたら良いか?それが初期の私のテーマです。それを調べるために、経団連、東京商工会議所等の政府への提言の変遷を調べました(西川、小林 1985)。その結果、二つのことが分かりました。第一に、提言の数と理科に対する予算は明らかに相関があります。つまり社会のニーズがあれば予算が付きます。第二に、戦後直後は小中高の理科教育に期待していましたが、昭和三十年代後半以降、理科教育に対する提言が激減しています。読み、書き、算の一般的な教育を期待しています。そして、高等教育の理系学部の充実を求めています。理科教育学しか視野を持っていないその当時は理解できませんでした。

 大学院の頃、コンピュータに没頭しました。大型コンピュータも面白かったですが、パソコンにはまりました。チップ(ボードじゃないですよ)を組み合わせごく単純なコンピュータを作りました。動かすには2進法の機械語です。やがて中間言語のアセンブラ、高級言語のBasicでコンピュータを使えるようになるたびに、「今までの苦労は何だったんだろう」と思いました。しかし、その頃には機械語やアセンブラを使う余地がありました。それを使いこなすと高級言語では実現できないことができます。それで学術論文を書いたことがあります。この頃に上越教育大学に理科教育学における教育工学の専門家として採用されました。その頃は、コンピュータで様々な機器をコントロールするための、インタフェースの設計、プログラミングを講義していました。

 ところがです、CP/MMS-DOSからウインドウズに変わると状況が激変します。ものすごくユーザーインタフェイスが向上します。しかし、そのために裏にあるプログラムが驚異的に複雑になり、私が追いついていけないのです。私はウインドウズを動かすプログラムを理解することをあきらめました。その代わりに、ウインドウズ上で動くユーザーインタフェイスの優れたプログラムの「ユーザー」に徹するようになりました。

 今、AI、ビックデータ、Edtechが魔法のように語られます。たしかに現在の私たちにとっては魔法のようなことを実現するでしょう。それを日本人の多くは理解する必要があるでしょうか?無いように思います。それよりも、それを使って何をするかを考えれば良いのです。その場合、必要なのはAI、ビックデータ、Edtechの技術的な理解ではなく、今後の社会のニーズはどこにあるかを理解することです。

 もちろん、AI、ビックデータ、Edtechを生み出す人は必要です。それは文部科学省が何かをしなくても、そういう人はそれにのめり込みます。むしろ、邪魔しなければ良いのです。文部科学省、そして多くの人たち、つまり工業社会人は規格化し、中央集権化します。それが邪魔です。すべての子どもに基礎的・基本的な学力を持たせたいという思いが、お節介なのです。その方面に進みたい子が望まないなら、古文を学ばなくて良い、体育を学ばなくて良い、その時間、AI、ビックデータ、Edtechにのめり込めば良いのです。

 デザインにのめり込む子どもであれば、望まないならば、数学を学ばなくて良い、物理を学ばなくて良い、その時間、デザインにのめり込めば良いのです。

 工業社会的なサービス・製品で日本が生きていこうとするならば、現状の新興国なみの賃金にまで落とさなければなりません。それがいやならば脱工業化社会の個性的で、総合的で、非同時的で、分散的で、適正規模で、地方分権的なサービス・製品を生み出さなければなりません。そのためには個性的で、総合的で、非同時的で、分散的で、適正規模で、地方分権的な教育の中で子どもは育てられなければなりません。

 古文を学ばない、数学を学ばない、というと「歪な教育」と言うでしょう。個別最適化とは他人様からは歪なのです。しかし、ピカソの絵は歪かもしれませんが、評価する人はいます。

 文部科学省の「Society 5.0 に向けた人材育成」には何度も「公正に個別最適化された学び」という言葉が出てきます。しかし、どこにも何を持って公正であるかは書かれていません。出席者のみんなは「公正」という言葉を使っているかもしれませんが、各人、べつべつな「公正」をイメージしています。では、「公正」を定められるのは誰でしょうか?それは個別最適化されるべき個々人である学習者なのです。

 また、「基礎的読解力、数学的思考力などの基盤的な学力や情報活用能力をすべての児童生徒が習得」と書かれています。しかし、何を持って基礎的なのか、基盤的なのかが書かれていません。上記と同じ共同幻想なのです。

 工業化社会人の人たちに決定的に欠けているのは、一人一人の個人が個性的であることを許される社会の姿なのです。そのため、子どもという子どもは一人もいないのに、安易に子どもという言葉を使ってしまう。

 

西川純、小林学(1985.10):戦後の経済・産業界の教育に関する要望・意見の変遷、科学教育研究、9、日本科学教育学会、100-106