お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2019-03-10

[]改革をしたいなら 21:29 改革をしたいなら - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 改革をしたいなら - 西川純のメモ 改革をしたいなら - 西川純のメモ のブックマークコメント

 みんなで取り組む『学び合い』入門(https://amzn.to/2J4kOpM)に書いたことです。

 改革をしたいならば二つのことが大事です。

 第一に、達成すべき目標を明確にすることです。それは多くの人が反対できないような至極当然なことです。そして、それを操作的に定義することです。簡単に言えば、どのように測定すべきかということを明確にすることです。小学校での『学び合い』だったら、「期待得点以下の子どもを0人する」、「QUテストの不満足群の子どもを0人にする」などです。これが不明確だったら、どんな結果を出しても改革は進みません。そして絶対にやってはいけないことは方法を強いないこと、求めるのは結果です。

 第二に、反対する人、分からない人をいじくらない。結局、改革を推進するのは2割の人です。その人たちの結果によって6割の人が動きます。そして、どんな結果を出しても反対する2割の人は動きません。下手にいじくると「あだ」します。従って、無関係が一番です。

 関係者がいるならば、その人たちも巻き込んでやるべきだと考えがちです。違います。分からない人を巻き込むと、その人たちが納得するレベルまで下げるしか合意とれなくなります。具体的には「なにもしない」というレベルまで。

 以上の結果として、達成すべきものが明確でない方法は、それがどんなにいいものであっても広がりません。なぜなら、中間層が意義を感じられず、反対派が強硬に反対するからです。両者とも意味を感じられない方法を強いられているとしか感じられないから。

[]一人も見捨てない 06:36 一人も見捨てない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一人も見捨てない - 西川純のメモ 一人も見捨てない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 資質・能力を最大限に引き出す! 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編(https://amzn.to/2HndzHe)には『学び合い』の考え方や方法論がどのように生まれたかが書いています。

 『学び合い』の方法論の出発点は優れた教師の方法論を抽出することから始まりました。(この過程は電子出版している現在絶版中の本にあります)従来型授業において子ども集団を動かすのがうまい先生、「脅し方、おだて方」のうまい先生はいます。その先生方は、ツボどころに短い言葉を発します。その言葉の後に生じる子どもの言動を、膨大に記録し、分析することによって『学び合い』の初期の方法論(例えば可視化)は確立されました。

 しかし、ここで出てくる方法論は教師の常識の範囲。説明すればすぐに「なるほど」と納得するレベルです。ところが4人班をつくらない、そもそもグループを作りなさいと求めない、というレベルになると直ぐに「なるほど」と納得しません。何故、4人班なのかを問われれば答えられませんが、なんとなくそう思うのです。そして、その中にはリーダー性の高い子が含まれるべきだと思うのが常識です。

 では、どうやってこのレベルの方法論が生まれたのか?

 それは子ども観があります。一人の教師が思いつくレベルの限界、子ども集団の可能性を信じられる考え方があったのです。

 子どもたちに方法を強いず、「全員達成」を求めたのです。そうすると子どもたちは様々なトライアンドエラーを繰り返しました。結果として、TPOによって相手と規模を柔軟に変化させる集団を創り上げたのです。さらに子細に分析すれば、その殆どの時間は個人の問題解決に費やしていることが明らかになりました。必要なときに他者と関わることをやっていたのです。これは「グループになること」を目的とする学習では生じない姿でした。

 教育委員会に『学び合い』の後援申請をする際、「子どもに学ぶ教師の会」という名称の会で申請する場合があります。このネーミングは上記の『学び合い』の成立に由来します。

 しかし、「全員達成」を求めているだけでは、一定以上には進めません。

 教師が絶対無理という壁があります。

 例えば、知的障害のある子がテストで満点を取ること、また、肢体不自由児が跳び箱を跳ぶことなどです。どうやっていいかなんて分かりません。もし、教師が面白い授業、分かりやすい授業ではなく、子どもたちの一生涯の幸せを願っているならば、どうやっていいか分からなくても乗り越えるべきであることを理解できます。なぜなら、子どもたちが大人になったとき、そのような状況にさらされるからです。そのとき、「一人も見捨てない」という言葉を発し、求めなければならないのです。繰り返しますが、どうしたらいいかなんて分かりません。でも、求めるべきか、求めるべきでないかを問えば、求めるべきであることはたしかなのです。

 その願いが確かならば、子どもたちは必死になって考え、トライアンドエラーを繰り返しました。

 あるクラスでは、テスト前に子どもたちは円陣を組んで「絶対満点を取るぞ~」と声を出すクラスになりました。そして、知的障害のある子も社会科のテストで3回連続満点を出したのです。

 あるクラスでは、子どもたちが話し合って教師に交渉したのです。彼らは自分たちで知的障害のあるその子にフィットした課題をつくるから、それをその子の課題としてくれと求めたのです。そう交渉する子どもたちは全員(その子も含めて)自信と納得がありました。

 肢体不自由児は跳び箱を跳べません。しかし、跳び箱の脇にいてみんなの飛び方にアドバイスをしていました。そして、その子を中心として、どうやったら飛べるかの作戦会議をしはじめました。

 「一人も見捨てない」は言葉がきついと言われる方がいます。おそらく、その方の「一人も見捨てない」は言葉がきついのでしょう。

 「一人も見捨てない」は人を見下げた言葉だと言われる方がいます。おそらくその方の「一人も見捨てない」は人を見下げた言葉なのでしょう。

 しかし、上記の姿を知っている私にとっては「一人も見捨てない」という言葉は温かい言葉です。学校を卒業した後の長い人生で、奈落に落ちていく子どもを救う魔法の言葉です。

 どんな言葉も、方法論も、それを用いる人の心の鏡なのです。だから批判する人の言説を読むと、その人が当然としているものが見えます。