この前の神戸での飲み会で話題なったことです。全世界的に見て、『学び合い』のオリジナリティはどこか、と聞かれました。私は「実証的学術研究の裏打ちがある」、「教師用のマニュアル(ホールプロダクト)が完備されている」を上げました。
プログラム学習は実証的な学術研究の裏打ちがありましたが、マニュアルはありません。探求学習はマニュアルはありますが、実証的な学術研究の裏打ちがありません(ブルーナーの本は、こうあるべきであって学術データはありません)。イエナプランは欧米ではマニュアルがあるかもしれませんが、実証的な学術研究の裏打ちがありません。「こうあるべきだ」が先行しています。学びの共同体は、両方ともありません。
なんで、こんなことが起こるのか?
理由はあります。
大学研究者は大学研究者の評価を受けることによって昇任します。そのユーザーたる教師の評価は対象とされません。私は早くに教授に昇任しましたが、その理由は学術論文の多さであって、教師用の本は対象となりません。何故かと言えば、そいう評価を文部科学省がやっているからです。ということで、実証的研究をしている人が、それを元にした教師用のマニュアルを作成する動機付けが無いからです。
では、何故、『学び合い』はそうなったかと言えば、教育を変えたいと思っている研究者を、サポートしたいという出版編集者がいて、その人たちが企画を通せるだけのユーザーがあるからです。つまり、素敵だと言うことです。
不遜ながらお伺いします。
子どもは多様で、それを対応することは一人の教師ではだめ。
教師がこのあたりまで分からせたいと思うレベルだった、塾・予備校・通信教材で学習済みの子は2割以上います。だから、その子が教えればいい。
教科の深い学びって、週4,5時間の教師の語りを聞けば分かるのですか?私は、それを生活の一部にすることで感じられるようになりました。
あなたの授業で、子どもは一生涯は幸せになりますか?
それは無理だという方へ、あなたの授業が決めることを実証的データで議論しましょう。
大人げないと思うのですが、また、私が奈落に落とした子どものことを思い出すのです。
まともな議論をしたい。