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不可能

 ネットを見ていると、『学び合い』を多様な教育実践の一つとして、多面的に利用することが大事だという書き込みがあります。まあ、テクニックレベルならば、アリでしょう。しかし、考えレベルなら不可能でしょう。

 だって、『学び合い』は学校観(多様な人と折り合いを付けて自らの課題を解決することを学ぶのが学校教育)、子ども観(子ども達は有能である)と、それらによって「一人も見捨てない」という願いが考え方なのです。

 「教科の深い理解を学ばせることが学校教育」と思っている教師が、心から「多様な人と折り合いを付けて自らの課題を解決することを学ぶのが学校教育」と信じられるでしょうか?「子どもの能力には限界があるので、教師が一人一人に寄り添ってサポートするのが教師」と思っている教師が、心から「子ども達は有能である」と信じられるでしょうか?「一人も見捨てないことは理想的だけど、現実には不可能」と思っている教師が、心から「一人も見捨てない」ことを信じられるでしょうか?

 クラスには大人の腹を見透かすことが出来る子どもは2割弱はいます。そして、その子はクラスをリードする子どもなのです。本気で信じていなければ、直ぐに見透かされます。

 つまり、『学び合い』を多様な教育実践の一つとして、多面的に利用することが大事だということは、民主主義は政治形態の一つとして、君主制、貴族制、神政政治、寡頭制、独裁制、専制、全体主義と多面的に融合する政治が大事だ、という言明と同じぐらい不可能なものなのです。

 ある方がSNSで、考えの『学び合い』は別の名前にした方がいいのではないかという書き込みがありました。う~ん、と唸ってしまいました。