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勝る点

 前期授業の後半に「従来型授業の方が『学び合い』に勝る点はあるか?」という課題を出します。今、学生さんからレスが来ますが、多くの教師が持っているイメージをお持ちなようです。そこで、以下のような文章をレスして、その上でもう一度議論を深めたいと思っています。皆さんもお読みください。長文です。

追申 ただし、ここで書いているのは面白い授業、分かりやすい授業レベルです。この議論が終わったら、その先に行きたいと思います。

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学習する内容

 当たり前のことを確認します。教育には目的があります。それがなければ遊びです。その目的を達成するために授業があります。そして、目的が達成するかを知るために評価があります。従って「目的=授業=評価」です。ここまではいいですよね?

 評価は具体的にはテストでやっています。テストには答えが一つです。少なくとも正答になるのは一定の条件を満たした場合です。従って、授業の目的は答えが一つであり。そのことを言語的に説明できるものでなければなりません。もちろん、応えが複数あり、そのどれもが正解である場合があることを全面的に否定しません。しかし、そうであるならば、それを評価すべきですが、評価しないのが実態です。つまり、その程度の大事さということなのです。それに、それを狙うならば、クラスの全員がテストレベルをクリアーした後であるべきです。そうしないと、クラスのごく一部が分かって、それ以外の子どもはちんぷんかんぷんの高尚な議論が深まる状態になります。

 例えば、国語において十人の読み手があれば、十人の読みがあると言われます。しかし、それは標準的な一つの読みを全ての子どもが出来た後のことです。授業で読みを大切にしている教師は少なくありません。しかし、その教師のテストの多くは漢字の書き取りと基礎的文法が占めています。言うまでも無く、答えは一つです。読みの問題も答えは一つです。何故、読みが一つになるのでしょうか?それは一定のルールに基づいているからです。例えば、「傍線の部分を具体的に書いている15文字の文章を抜き出して書きなさい」という問題があります。得意な子どもは傍線の中にあるキーワードを探し出します。そのキーワードを与えられた文章の中で探します。そして、そのキーワードを含む15文字の文章を探すのです。国語における読みの大部分はそのようなルール化することが出来るので、答えが一つになるのです。不得意な子はこのルールが分からないので、問題が解けません。得意な子どもも意識化していない場合は多いです。その得意な子が教える段階で意識化し、言語化して説明することが出来ます。そして、不得意な子が理解できるようになります。このレベルのことが全員が出来るようになったとき、始めて十の読みの授業が出来るようになります。

クラスの構造

 小中高の全ての教科において、教師は成績中、もしくは中の下に合わせた授業をします。成績上に合わせれば、大部分の子どもにはちんぷんかんぷんで、スピードが速すぎます。成績下に合わせれば、大部分の子どもは退屈で、スピードが遅すぎます。だから、成績中、もしくは中の下に合わせます。

 現在、子どもたちの3割から半数は、塾、予備校、ベネッセの通信教材で学んでいます。保護者の半数は4年制大学の出身者です。従って、授業前に学習済みの子どもは3割以上います。

 従って、新単元であっても6人から9人の子どもは成績中、もしくは中の下に合わせた内容を教えることが出来ます。その子たちは対話しながら説明できます。一人の教師が一種類の説明を一方的に教えるよりは分かりやすい。

 実技教科等

 実技教科の場合は塾、予備校、通信教材はありません。その基礎的なところは教える必要があります。また、理科の場合でも、酸素検知管の操作などは教える必要があります。しかし、思い出して欲しいのですが、それを教師が説明しているとき、クラスの何割が真面目に聞いていますか?大部分は聞いていません。つまり、その子たちにとって、その説明の時間は無駄なのです。

 実技等が難しいのは子どもだけではなく、若い教師も同じです。世の中には、その教師が実技を学ぶための本が山ほどあります。それを元にして子どもにどう説明するかを考えるのです。そして、自分が説明する言葉を文字にして、板書する図を絵にして、プリントを作成します。それを配れば、先に述べた教師の説明をちゃんと聞くような一部の子どもがそれを読み理解します。(もし得意な子が文字を読んで理解できないならば、教師が説明しても理解できません。)理解した子どもが身振り手振りで周りの子どもに教えます。

 実技教科に関して『学び合い』実践をしている人は多いですが、抜群の結果を出しています。理由は、実技教科のネックは教師が思っているところとは別だからです。例えば、跳び箱です。跳び箱は勢いよく走って、ジャンプし、跳び箱の奥の方に手をつけば飛べます。しかし、怖くてそれば出来ません。水泳は顔を水につけて、体をまっすぐに伸ばせば水に浮きます。そしてジタバタとすれば前に進みます。しかし、顔を水につけるのが怖いのです。このあたりは跳び箱に飛べる人、泳げる人が見逃す点です。この「怖い」を理屈で説得することは不可能です。これを乗り越える力は教師には殆どありません。あるとしたら同級生の「いっしょにやろう」なのです。特に、さっきまで「怖い」と思っていた子が、「私も怖かったけど、大丈夫だよ」という言葉が有効です。

 リコーダーの練習の時、合唱の練習の時、やったふりをする子はいます。理由は教師には分からないと思っているからです。しかし、同級生同士で練習しているときはふりは出来ません。

 英語の発音、合唱の時、ネイティブのCDや合唱の全国大会のCDを用意してください。図画工作の作品は全国大会での優勝作品の写真を用意してください。子どもの中には、どれがいいか、どれが悪いかを分かる子がいます。その子が善し悪しをアドバイスします。もし、そのような子どもがいないならば、所詮、教師のカーボンコピーしか育てられません。

分かるほどいいか?

 教師の方が教科の内容をよく知っています。だから、教えるのはうまいと思っているかもしれません。しかし、これは認知心理学的に誤りです。学習が成立するのは、教え手と学び手の認知的距離が適度であるとき成立します。わかりやすい例を挙げます。皆さんの生涯に教えてもらった教師のなかで壊滅的にわけの分からないことを教えた教師は、小中高大のいずれですか?おそらく大学教師だと思います。専門家の話は分からないのです。

 つまり、教師の説明が分かるのは、既に学習済み(つまり教師の説明を聞く必要の無い)成績上位層と成績中の上なのです。成績下位層にとってはちんぷんかんぷんのままです。

 教師より成績中の気持ちと理解が分かる、学習済みの成績上位層の子どもが成績中位層に教えます。分かった成績中の子どもが成績中の下に教え、成績中の下の成績下位層に教えるのです。教師は成績下位層の子どもの気持ちや理解を理解できないのです。これを乗り越えることは出来ません、何故ならこれはホモサピエンスの頭の構造に由来するからです。成績下位層の知識の構造と、上位層の知識の構造は不連続で異質なのです。

 間違った答えが広がらないか

 先に述べたように『学び合い』の課題には答えがあります。その答えを教卓の上に置きます。課題が終わった子はそれを見て答え合わせをします。その子は教室の色々なグループを回って誤った答えで満足している子どもを見いだして、間違っていることを教えます。従って、間違った答えのままになることはありません。 

遅くならないか

 『学び合い』では教科書の標準時間数の3分の2で終わります。理由は無駄がないからです。一斉指導の場合、クラスの中で相対的に遅い子に合わせて、次の段階に進みます。例えば小学校低学年では文字を書くのが極端に遅い子がいます。板書した文字をノートに書かせた場合、その子が書き終わるまで待たなければならないのです。このようなロスが各段階で生じるので、積算したロスは大きくなります。

 一方、『学び合い』では得意な子を待たせるロスは生じません。課題を早く解決できる子どもはどんどん進みます。そして、余った時間を使って教えるのです。そのような子どもが5人から9人で手分けして教えるので効率が高いのです。

 さらに、課題をまとめて渡せば予習する子が生まれます。開始直後に答え合わせをする子が現れます。その子は時間フルに使って教えるのです。そうなれば標準時間数の半分で終わります。

 一斉指導では時間内に終わらせようと考え、行動するのは教師一人ですが、『学び合い』ではクラスの2割以上の子ども考え、行動します。その子たちは、「もうそろそろ、問題3番にとりかからないと間に合わないよ」というような声がけを周りの子どもにするのです。 

遊ぶ子

 遊ぶ子は一斉指導でも、『学び合い』でも遊ぼうとします。一斉指導で教師が注意すれば勉強しているふりは出来ますが、頭の中は別です。そのような子どもに教師が注意しても無駄です。そもそもそれで変わるぐらいだったらとっくに勉強する子になっています。歴代の担任が「勉強しなさい」と言っても変わらない子に、もう一度言っても変わりません。むしろ子どもからの「勉強しようよ」という言葉の影響力があります。さらに、対話して教えるので「分かったふり」は出来ません。

 授業中に遊ぶ子は教師に嫌われても生きられます。しかし、同級生から浮けば生きずらくなることを知っています。また、教師の目からは逃れることは出来るけど、同級生の目から逃れられないことを知っています。

 みなさんは学生同士で話して笑ったことがあると思います。しかし、その会話を文字に起こしてみれば、笑うほどのことではないと思います。では、何故、笑うほど楽しいのは何故でしょう。それは会話したからです。人が面白いと感じるのは内容ばかりではなく、誰と会話したかが重要なポイントです。つまり、不得意な算数、国語も友人と学べば楽しくなるのです。 

出来る子どもにとって

 勉強の分からない子、勉強の嫌いな子にとってのメリットは分かりやすいのですが、勉強の得意な子にとってのメリットが分かりづらいかもしれません。しかし、そのような子が活発に動いてもらわなければ『学び合い』は成立しません。

 勉強できない子の落ちこぼれも問題ですが、成績上位層のふきこぼしも問題です。彼らにとっての学校の授業は退屈で、塾・予備校で既習のわかりきったことをもう一度繰り返すだけです。そのようなことを教師からもう一度座って聞くよりも、友達に教えて「ありがとう」と言われる方がもっと得です。

 これからの社会はどのような社会であるか?その社会において成功するにはどのような能力が必要か?という抽象度の高い内容を理解し、一人も見捨てないのは徳ではなく得であることを理解する子はそのような子どもなのです。

 部活を思い出してください。どんな部活も、「やるぞ」という子は2割、「お前なんでこの部に入ったの?」という子が2割、そこそこやって楽しもうという子が6割だったと思います。部活の善し悪しは、6割がどちらの2割につくかです。2割の子どもに一人も見捨てないのは得だと理解させれば、6割の子を取り込みます。そして8割の子が程度の差があれ頑張れば、やる気の無い2割もやらざるを得ないのです。 

孤立している子の孤立が顕在化する

 孤立している子がいたとして、その子をどうしたらいいのでしょうか?解決すべきですよね?どうしたらいいでしょうか?一斉指導では何も出来ませんね。つまり、クラスの闇を無くすのではなく、「教師」に見えづらくすることしかできません。教師は気が楽になるかもしれませんが、その子の苦しみは救えません。救うためには闇を顕在化し、それを解決することは全員にとって得であることを納得させなければならないのです。

 ある会に参加したみなさんが、見ず知らずの大学生たちと一緒の机に座ったとき、司会者から「仲良くゲームで遊んでください」と言われるのと、「大学生活で困っていることを共有し、大学にどのような改善をしてもらいたいかをまとめてください」と言われるのとどちらが楽ですか?おそらく、後者だと思います。

 一人も見捨てないことは得だと理解した子どもが孤立している子に近づきます。その子に「遊ぼう」と言うよりも「教えてあげるよ」という方が自然です。だから、『学び合い』では教科学習の時間にクラスづくりをしています。

 一つ補足があります。『学び合い』では「仲良し」になることを求めていません。全ての子どもが全ての子どもと繋がることを求めていません。全員が課題を達成することを求めているのです。部活にも、職場にも苦手な人はいますよね。だからといって無視しませんよね。挨拶をちゃんとやり、協同できるところは協同する方が得ですよね。あれでいいのです。 

勉強できない子が顕在化する

 勉強出来なくて恥ずかしい、知られるのは嫌だという子どもを一斉指導でどのように救いますか?おそらく救いはない。つまり、クラスの闇を無くすのではなく、「教師」に見えづらくすることしかできません。教師は気が楽になるかもしれませんが、その子の苦しみは救えません。救うためには闇を顕在化し、それを解決することは全員にとって得であることを納得させなければならないのです。

 『学び合い』では色々な人から教えられることから分かるようになります。でも、知的な障害がある子がいたらどうしたらいいでしょうか?『学び合い』では大人になって老人になったときに何が必要かを語ります。それによって、現在の勉強の得意、不得意は相対化します。

 例えば、「算数は出来る方がいいけど、絶対に出来なければならないものではない。人には得手不得手があるのは当然。算数が出来なくても幸せになれる。でも、算数をどのように学ぶかによって幸せになれるかなれないかが決まります。得意な人も、不得意な人もどのように学ぶかを考えて、行動してください」と語るのです。 

『学び合い』を実践するのは難しい

 心配するのは当然だと思います。しかし、冷静に考えて下さい。従来型はもっと難しいのです。クラスには東京大学に行きそうな子どもがいる一方、知的な障害が疑われる子どもがいます。子ども達の指向性は多種多様です。認知の方法も多様です。言葉の説明が分かりやすい子どもがいる一方、図で説明する方が分かりやすい子もいます。その子達が全て(100歩譲って大部分)の子どもが面白くて分かる説明がこの世にあるでしょうか?

 単に一方的に喋って、板書するのであれば、全て自分のペースで進められるので、それは可能です。しかし、それは子どもが学んだということではありません。

 『学び合い』は実はもの凄く簡単です。それが証拠に私のゼミに入って3ヶ月にもなれば飛び込み授業は出来るようになります。事実、やっています。何故でしょうか?

 「座れ、黙れ、ノートをつけろ」と指示するのと、「立ち歩いていいよ、相談していいよ、でも、一人も見捨ててはダメだよ」のどちらが簡単ですか?クラスの8割以上の子どもはクラスに繋がっている子がいます。だから、「今日はこれこれの課題をやってね」と指示を与えれば誰でも出来ます。だから、8割以上の子どもが学び合う状態にすることはど素人でも出来ます。しかし8割を9割にするのはなれている人でも2週間(初心者で3ヶ月)かかります。そして9割を10割にするのは誰でも1年間かかります。しかし、8割でも凄いことだと思いませんか?だって、小学校の算数の時間を思い出して下さい。8割の子どもが勉強を継続しつつけているクラスを見たことありますか?大抵のクラスは10分ぐらいで宇宙に飛び立ってしまいます。

 『学び合い』のテクニックは教科内容に依存しません。一人一人の行動は予測できませんが、集団の動きはかなり正確に予測できます。例えば、コップの中の水分子の動きを予測し記載することは現代科学でも不可能です。しかし、コップの中の水の動きは予測できます。だから幼児でもコップの水を飲めるのです。

 その予測可能な集団の動きに関して数千人の教師が二十年以上実践して、失敗しやすい点、それを乗り越えるポイントを共有し、整理しています。

 「『学び合い』ステップアップ」、「週イチでできるアクティブ・ラーニングの始め方」、「『学び合い』を成功させる教師の言葉がけ」、「学力向上テクニック入門」、「みんなで取り組む『学び合い』入門」の5冊を読めば、必ず成功させることが出来ます。それぞれ1日で読み終わる本です。読めば、何故、可能なのかが分かります。

 西川には西川の語り方があり、AさんにはAさんの語り方があります。だれもが西川のように語る必要はありませんし、そもそもそれは不可能です。話術がある人はそれを使ってもいいですが、必須ではありません。大事なのは語る人が、そのことに確信を持っているか、つまり、語っていないときの一挙手一投足が語った言葉に一致しているかが大事です。

 従来型授業では、教科内容を学ばせることを目的としています。しかし、『学び合い』では教科内容を学ぶ過程で人との繋がりを学ばせる ことを目的としています。だから、知的障害のある子どもを特別視しません。従来型は教師の指導がなければ子どもは学べないと考えています。だから、子どもは依存的になります。一方、『学び合い』では一人一人の子どもの能力は低いが、集団になるとものすごい力があると考えています。そう確信している教師を見ている中で一部の子どもが動き出すのです。

 話術、演出、それは所詮味付けです。本体は、当たり前のことを本気で信じ、それを語るだけです。本気で信じるためには学ばなければなりません。本を読み、自分で考え、人と語り合うことが必要です。でも、これは『学び合い』に限ったことではなく、当たり前のことです。

私が『学び合い』がオールマイティで従来型に勝ると思っている理由

 上記以外にも様々な課題がクラスにあります。そして、クラスの子どもは多様です。そのような状況を理解した上で、全ての子どもにフィットする解決策があるでしょうか?私はないと思います。

 例えば、何かを暗記するというような単純な課題であったとしても、フィットする覚え方は多様です。また、何を覚え、何を覚えなくていいか(例えば、既に覚えているという理由で)は多様です。そして、どの順番で、それぞれに時間をどのように割り振るのかも多様です。一斉指導ではそれを一律にしてしまうのです。

 受験勉強を思い出してください。一番いい勉強方法は、自分に合った参考書と問題集を自分のペースで解くことだと思います。そして、分からないところを聞けることだと思います。もし、教師が参考書と問題集を指定し、その日に学ぶことを指定した場合、みなさんはありがたいですか?

 教師が一人の子どもフィットする方法を探ろうとしたらかなり時間がかかります。さらに言えば、認知的距離のある子どもには無力です。その上、30人の子どもに責任があります。従って、神のごとき教師でも不可能です。

 子どもたちが手探りで解決するほか無いのです。だから、『学び合い』では問題があったならば、それを解決する意義を語り、任せるのです。

 成績中もしくは中の下に合わせた学習において、教師が考える方法を全員に一律に課す方が、一人一人が自分に会った方法(多くの場合は、自分に合った説明をしてくれる人に教えてもらうという方法)で解決するより勝る状況があるでしょうか?