今から二十年以上前のことです。ある大学の大学院生の発表を学会で聞きました。論理的には分かるのですが、どう考えても学校現場に広がらないことは確かです。我がゼミのゼミ生が、それを現場に生かすにはどうしたらいいのかを質問しました。そうしたら大学院生が目が点になり何も言えません。学校現場に生かすことを想定していないのです。
学術論文をまとめるのは、その作法を知っている人にはたやすいことです。だから私は学術論文を量産できました。ゼミ生の研究を学会誌論文にまでまとめることは出来ます。昔は学術論文を生産することに燃えました。でも、今はむなしい。
ゼミ生が研究の話を私にするとき、最初は研究のための研究の話をします。聞けば聞くほど、空しくなります。そのときは「おまえは研究者になるつもりはないよね。だったら、研究のための研究はやめろ。研究のための研究か、学校現場に活かされる研究かを判別する方法は簡単だ。おまえが今、俺に話したことを親しい後輩に話すか?絶対に話さないだろう。林の数量化理論とかバリマックス回転とか、話すか?話さないだろう。話したらドン引きになることは分かっているはずだ。その後輩に話すとしたら何を話す。それが学校現場に活かされる研究だ。学校現場に活かされるためには、先生の中でそれが素敵だと思う人を生み出さないならば、何も変わらない。」と諭します。まあ、学校現場に生かしたい思いはゼミ生はあります。学術研究のスタイルの呪縛を解けばいい。学術研究の作法に従わせるのはたやすいことです。
研究者になりたいならば、効率の良い学術研究業績の上げ方はあります。それは研究者志望のゼミ生には教えました。今、弟子、孫弟子はそれで頑張っています。でも、私はそれをやるつもりはありません。私は論文数ではなく、自分のなしたことです救われる人のが生まれることを妄想しています。その妄想を教師になりたいゼミ生と共有したい。