飲み会の話題でアウトなのは宗教と政治です。なぜなら、理屈ではなく感情的になりがちです。だから、SNSでその話題を出すべきではありません。ゼミ生との気楽な会話でも、その話題は出さないようにしています。ゼミ生からの質問に対しても、はぐらかします。
が、本日は書きたくなりました。
小さいときのあるとき、自分が死ぬことを自覚しました。そして、恐れました。多くの人が、やがてそれを考えないようにします。でも、それから逃れられなかった。だから、中学校の頃から、宗教関係の本をいっぱい読みました。亀井勝一郎に心酔しました。分かりもしないのに、中学校頃から正法眼蔵、法華経の和訳、歎異抄、顕浄土真実教行証文類、立正安国論をよみました。小さい頃に日曜学校に通った私は、聖書を読み、外典を読みました。神保町にあった、悪魔学の本まで読みました。
その他、山ほどの宗教関係の本を読んだ結論は、「分からない」です。法華経の現代語訳を読むと、だんだんぼーっとなってくるのです。自分の次元との違いを感じるからです。
その結果、私が行き着いた結論は二つです。
絶対者と私は人とアリと同じぐらい離れた存在である。だから、絶対者の意図を理解するなど無理。
絶対者は我々を愛してくれている。
これは願いです。だって、それを信じられなくなったら救いがないから。
だから、個々のアリがどう祈るかは重要ではありません。絶対者がアリの巣をどうしたいかです。
私は毎日朝と夕方に、家内と一緒に「家族仲良く健康で」を祈ります。しかし、それが絶対者に伝わるとは思っていません。ただ、アリの私が超然している絶対者に独り言を言っているのです。
でも、これって『学び合い』に似ているなと思います。
個々の問題は人集団の中で解決します。しかし、そうできるホモサピエンスの本能を決めているのは絶対者です。
追伸 書き終えて、ふと思います。こんなこと考えずに、勉強したら、エリートコースに乗れたかも。あはははは。もちろん、後悔はないですよ。