お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

代案なき否定

 私は「代案無き否定は、単なる悪口に過ぎない」と思っています。ただし、代案を出せない人に対して「それは悪口だ」とは言いません。しかし、腹の中でせせら笑っています。

 二十年以上前の会議です。私より年長のある人が、私には言葉遊びに過ぎないと思われることを長々と話します。具体的な議論に持って行こうとすると、はぐらされます。そこで、その事がいついつまでに決めなければならないことを確認しました。そして、「先生なりの代案を提案して下さい」と求めました。その会議でも、代案なくはぐらされました。そこで、来週の会議に決めないとタイムアウトであることを確認し、次には代案をだすことを求めました。その先生も同意しました。ところが、その先生は次の会議では欠席されました。

 私は理解しました。その方は、決めようとする気持ち(責任感)が無いだけではなく、代案を創る能力の無い方であることを。

 結局、私が思ったとおりに決まりました。こんなことは大学では比較的頻繁に起こります。

 大学では「代案無き否定」は悪いことではないと胸を張っている人が少なくありません。確かに学問の世界では、問題点を指摘することも生産的です。先行研究を否定する論文は論文と認められています。だからだろうと思います。しかし、一定の日時までに物事を決めなければならない事(おそらく学問以外の実生活ではこれが殆どです)の場合、代案を出せなければ最終的に無視されます。

 決めなければならないと思っているときに、代案なき否定をされるとイライラします。しかし、どうせ無視できることもしっています。おかげで有利に生きています。

 研究者の中には、学問の世界と議論と実生活の議論の違いを理解せず、学問の世界の議論を実生活の議論に持ち込むため代案なき議論をふっかける人が絶えないのでしょう。損な生き方だと思います。