昨日のメモの補足をいたします。
例えば、教諭の仕事は「教育をつかさどる」という至極、曖昧な表現以上の文章はないのです。都道府県以上のレベルの教育委員会は法をよく分かっているので、命令および命令と受け取られかねない表現の文章は出しません。それは法を分かっている校長も同じです。残念ながら、市町村レベルの教育委員会や思い込みの激しい校長は命令を乱発しますが、それは法を学べば御しやすい敵です。
では、法に書かれていない部分に関しては、どのように決められるのでしょうか?それは、公序良俗に基づく司法判断です。
具体的な事例を挙げましょう。
年度末には指導要録の作成でヒイヒイいっている先生方も多いと思います。しかし、あれを書く義務を負っているのは校長なのです。だから、指導要録を書かないということは理論的には可能です。しかし、大きな学校の場合、校長がそれを書くのは不可能なので、教諭に書くことを命令したとしても司法はその命令を妥当と判断するでしょう。(逆に言えば、児童数数人の学校だったら、あれは校長が書くべきものだと思います)。
同じ論法です。指導要録の下案を『学び合い』で子どもたちに作成させることは、それに教育的意義と子どもたちの書いたものの質の高さをエビデンスに出せばいいのです。そのとき、「指導要録を書く義務があるのは校長先生ですよね」とニコリとすればいいのです。
そして、公序良俗から考えて望ましいものであったとしても、勤務時間を超えた勤務を求めることは違法なのです。
定常的に勤務時間外の勤務を求められたら、どんな美辞麗句で飾られても拒否することは出来ます。校長が本当にそれを求めるならば、勤務時間の再設定が必要です。その場合は被雇用者側の不利益が生じない範囲に止まるのです。ということで、年単位の変形労働時間制なんて、あり得るわけない、噴飯物です。ということで、子どものためということを言い立てても、勤務外の部活指導を断れます。
仕事でも同じです。一つ一つの仕事を整理し、それぞれにかかる時間を積み上げて、勤務時間内に終わらないことを示せば、断れます。
以上のためには法をちゃんと理解することが大切です。是非、「教師がブラック残業から賢く身を守る方法」(https://amzn.to/3vryzVR)をお読みください。
ただし、法を理解した個人個人に責められれば、学校は制御不能になる可能性があります。賢い組織は、組織として法を理解し、ダウンサイジングをすべきなのです。その最先端を大分大学附属小学校が断行しました。「仕事はここまで削減できる! 学校改革スタートブック」(https://amzn.to/3745gPQ)をお読みください。世に広く知られた学校改革が霞んでしまうレベルですよ。