私に本気で「一人も見捨てない」の意味を問えば、ボロボロと泣き始めると思います。まあ、多くの人には、ドン引きだろうと思います。
すみません、率直に書きます。
小中の先生方は教え子が奈落に落ちる姿を知りません。もちろん、その姿を見ている人もいますが、心の中で進学先の学校がなんとかしてくれるという免罪符があります。どんなに、家庭的に問題があっても、卒業式に胸を張って行進してくれれば自らを許せます。
普通科高校の先生の場合、まあ、大学進学する子どもと、就職する子どもが殆どです。だから、心の中でその先がなんとかしてくれるという免罪符があります。
定時制高校の場合は違います。「私」が退学手続きをした子どもと2ヶ月後にあったら、やくざのパシリになっていたのです。その子は変わらず、私に懐いているのです。私のクラスではないですが、退学後3日で窃盗で逮捕された子どもがいます。定時制の高校教師時代、学校というつながりを失った途端、危ういのです。そして、カリスマ教師になった私はそのような子どもを大量生産してしましました。高校の卒業式に呼ばれたとき、私の教え子は3人しかいませんでした。その他の多くは退学したのです。
義務教育の先生方から「一人も見捨てない」はきつづぎる、「みんなが分かる」にします、という発信があります。まあ、気持ちは分かります。でも、私の「一人も見捨てず」は上記のような切実なものがあるのです。
でもね、生涯の教え子達、おそらく数百人いるでしょう。その子達の幸せに責任があると思ったら、私は潰されます。私の管下においては、私の責任です。巣立った後は、その子達の責任です。その子達が反『学び合い』になってもいいです。でも、私の仕事は、私の管理下に置いて、一生涯の多様で多数のつながりを当てることだと思っています。で、やっています。だから、心穏やかです。