大学教師となり、自分の研究室を主宰し、多くのゼミ生と関わりました。
ゼミ生として過ごす彼らの変化は、見ていて楽しい。
最初は、「自分はこうだと演じる」という鎧を着ています。そのうち、このゼミだったら、その鎧を脱いでもいいかもと思い始めると、その学生の「自分の本当はこうだ」という姿をすこしずつ出し始め、周りがそれを許容するかを確かめます。しかし、「自分の本当はこうだ」とは、頭の中での「こうありたい」であって「本当」ではありません。そもそも「本当」なんて分からないのですから。「こうありたい」は「自分はこうだと演じる」のと同じぐらいエネルギーがいります。
やがて馬鹿馬鹿しくなります。その場、その時に、楽な判断をして、それが受け入れられるうちに、それを出します。結局、平凡な自分を見いだすのです。そうなると、楽な自分が分かると、そうなれない自分の拘りを分かるようになります。あとは、その拘りを出すか、控えるかを学びます。ようは肩の力が抜けるのです。
その過程が楽しみです。私の目の前で、その変容が見えるときもありますが、ゼミ集団でのメンバーの受容過程で見られます。
このあたりの言説を読んだことはありません。ま、私も実証的データのレベルで分析したことはありませんが。
ゼミ生諸君、私は見ているんだよ。ふぉふぉふぉ