自分が年を取るにつれて短気になっていることを感じます。
対個人に対しては寛容になっています。ゲーテは「寛大になるには、年を取りさえすればよい。どんなあやまちを見ても、自分の犯しかねなかったものばかりだ。」と言っています。私もそうです。大学生時代の私に比べクソな学生を見たことありません。
しかし、制度に対しては短気になっています。
本日はムカムカしています。ある地区の中学校では、1という成績を出さねばならないのです。つまり、学習指導要領が達成しない子どもを生み出さねばならないのです。何故かと言えば、内申点を高校入試に使うためです。
罪深いと思います。その地域の校長はテストの点数が0点であることは仕方がない、むしろ、望ましいとのことです。呪いたくなる。お前、教育者かよ、と言いたくなる。そのような校長の下では学校経営は危うい。
今の世の中が工業化社会であることは知っています。でも、せめて競争的な関係の単位が学校・クラスではなく、地区・都道府県であれば良いと思います。上記のようなシステムだと、同級生が競争相手で、足の引っ張り合いをすることになる。じゃあどうするか?
比較的多くの地区では、地区の中学校の生徒が全員参加する学力試験を数回します。そして、その点数を各学校の進路担当の責任者がもちより、ソーティングするのです。その結果に基づき、各生徒の受験先が決まるのです。私的には馬鹿馬鹿しいですが、内申点のために「1」を生産しなければならない地区よりは遙かに良い。
我が子がその地域の生徒でなかったことを、喜びます。同時に、その地区の先生方は、それを容認しているとしたら、「くそ」です。戦うべきです。
ということで、毒を吐きました。ま、マジョリティの人は、右にならえであることを理解し、それは仕方のないことは、十分に理解しています。