40年弱の教師人生で分かったこと。
良い授業は、内容に依存すると思っていました。
定時制で暴走族に物理を教えて分かりました。それが愚かであることを。どのように伝えるかが大事だと分かりました。
でも、それでも反発する子どもはいます。それを乗り越えるには、個に寄り添うことであることを知りました。
でも、一人の子どもに寄り添うことは多くの子どもを見捨てることを数年後に知りました。
そして、私の前では最高の学級経営を実現したと先輩教師から評価されたクラス、当然、私自身は自信満々のクラス、が、もろいものであることを知るのです。
出口はわかりません。
大学では、実証的研究によって打開しようと思いました。少なくとも古典的な教育研究に出口を見いだせませんでした。
でも、教育を実証的データで語っても、大事なものが抜け落ちてしまいます。
次に認知的研究に出会いました。狂喜乱舞です。なにしろ、その知見を教科学習に適応すれば、十数パーセントの学力向上が実現するのです。私が多くの学会の賞をいただいたのは、このあたりの研究です。
多くの業績、賞をいただきましたが、空しかった。私の高校時代の教え子を全ては救えないことは明らかだから。私は少しでも救いたいではなく、全員を救いたいだからです。
全ての子どもを救いたくて、『学び合い』研究にシフトしました。毎年、毎年、ビックリするぐらいの発見があり、それを学校現場に発信しました。全国の心ある教師の方が頼りのフィードバックにより、『学び合い』のテクニックは完成されました。
しかし、そこで書いていることと、自分のやっていることの乖離が激しいのです。
やがて気づきました。
有機的な子ども集団を形成するには『学び合い』の初期段階は有効です。でも、その先があります。本当に有効な集団ならば、クラスに4,5人の子どもが動かしています。その子どもを動かせるヴィジョンがあるかです。
みなさんが勤めた職場を思い起こしてください。
校長の腹を読める人がいて、多くの人は、その人と繋がっている。あれって、クラスも同じなのです。
私のゼミに所属する人は3パターンです。
第一は、『学び合い』を実践し、その良さを分かった人。
第二は、一人も見捨てないというミッションにロマンを感じる人。
第三は、なんだか知らないが、居心地がよさそう。
実は3つは、全く同じことの表現の違いなのです。
だから、ゼミ生の質問は、人生の質問が多いです。