高校教師から大学教師になった30年以上前は毎日、今でも月に1度は、高校時代の教え子が夢に出ます。その度に泣きながら「ごめんなさい」と言います。夢に中の教え子達は私に懐いています。だからこそ、泣いて許しを請います。
教え子を奈落に突き落としたのは、いわゆる良い先生になったからです。私は信任一年目に暴走族相手に物理を教えなければなりません。そんなの無理ですよね。でも、優れた先輩教師の導きと、若い、かっこいい(と思っています)教師というアドバンテージで実現し増した。その結果として、青春ドラマの教師のような経験をして、その喜びを知りました。でも、今は分かります。それ故に罪を犯した。私が教えている内はいいのです。しかし、私の手を離れた途端に問題が起こる。世にある教科指導、学級経営はその視点がない。そして、胸を張って卒業式を迎えればハッピーエンドになる。ところが、途中で大学に異動し、その結果を見ることになりました。
だから、授業レベルの教科指導、1年単位(それ以下)の学級経営の罪深さを知りました。だから、三十年間、自らを律しました。もし、「しょうがない」、「俺はやった」という合理化したならば、自分が腐ると思っています。
でも、本日思いました。
退職後は、夢の中で教え子に会ったら「すまない」と言うでしょう。同時に「しかたがなかったんだ」、「一生懸命やったんだ」と言います。きっと夢の中の教え子はニコニコしているでしょう。最前線でいられるわけではないのですから。
今の私は非常に楽なポジションです。ごちゃごちゃしなくてもゼミ生が問題を解決してくれます。講義等は蓄積があります。
なんで退職が楽しみなのか、自分でも不思議です。でも、久しぶりに教え子に謝っている自分に、「あ~、これから逃れたいのだな」と自覚しました。
この呪縛があるから、退職までは熱い教師で居続けます。
追伸 『学び合い』はこの呪縛のある教師がはじめたという特徴があります。そのため、多くの教師にとっては「うっとうしい」、「極論」と思われるでしょう。でも、私にとっては責め苦で縛られている縛りなのです。でも、私はもうすぐ解放されます。