私の初期の本では、教師の仕事は「目標の設定、評価、環境の整備」と書いています。しかし、それが「目標の設定、評価」になり。環境の整備が無くなりました。
昨日は、ゼミ生5人の卒業研究発表会の中間発表です。ゼミの文化なので、私の発表を聞いていません。研究の相談はごく希に受けます。あまり相談を受けないので「大丈夫?」と聞くと、「ゼミ生の中で相談しています」と応えます。
つまり中間発表会での発表を始めて聞いたのです。ところが、その発表会場でもプレゼンを見ずに、例のコンテンツ(最近のゼミ生は知っていますよね)を読んでいました。5人の発表時間内に、一つの小説と一つのマンガを読了しました。
ちなみに、大事なことは押さえていますよ。
二十数年前ぐらいは、ごく普通に私の研究室にゼミ生が来て、個人面談をしていました。その時の話しです。ドアをノックし「失礼します」と入室した瞬間に、「帰りなさい、私に見せられる状態ではないでしょ」とニヤニヤして返します。ゼミ生はゼミ室に変えると「撃沈~」と言います。逆、入室した途端に「いいです。それでいい」と言うときがあります。ゼミ生は「????まだ一言も説明していません」と言います。私は「聞かなくても分かります。それでいい」と言います。(ちなみに、この場合は、「是非説明させて下さい」とお願いされます。
この見取りが的確なので、私は超能力者のように思われるときもあります。しかし、種を明かせば簡単です。そのゼミ生の研究のことを一番に考えているのは当人です。当然、どのレベルかを知っています。そのゼミ生が超能力者の私の研究室に入るときの声・表情にはそれがありありと出ます。だから、聞く必要がないのです。ちなみに自分なりに考えて、仲間に相談して、それでも分からないから私にアドバイスを求めるゼミ生の声・表情も分かります。その場合は、じっくりと聞いてアドバイスをします。
さて、私は発表会でゼミ生の声・表情をちょっと聞けば、どのレベルかが分かります。だから、例のコンテンツを楽しめるのです。
個別最適化の社会において目標の設定は本人がすべきことです。それと対になる評価も本人がすべきことです。有機的な集団が出来れば、全員が出来ます。
ゼミ生が私に「先生は何やっているのですか?」と聞きました。私は「幸せになったほうがいいよ、と言って、私が幸せであり、どのようにそれを成り立たせているかをさらすこと」と言ったら、至極、納得してくれました。この感覚は、ゼミに入らないと分かりづらいですね。