本日もオンラインゼミがありました。数々の質問がありましたが、「これって、俺以外は言わないことだな」と思うことがあり、書くことにしました。おそらく、感情的な反発を持つ人がいるでしょう。その人の全員は疑いません。しかし、甘んじてそれらを受けた上で、書くべきことだと思い、書きました。
道徳や特別支援教育でイジメをなくすために、イジメがいかに悲惨であることを分からせる実践は山ほどあります。それは副読本であったり、役割演技だったり様々です。しかし、無意味だと私は思っています。何故なら、イジメが悪いことであり、それが当事者にとっては辛いことを知らない子どもはいないからです。そんなことは100も承知、200も合点な子どもたちが、イジメを容認しているのです。
今から書くことを恐れながらあえて書きます。
本日のオンラインゼミで聞かれたのは、原爆投下の悲惨さを平和教育ですることに対して西川先生(私)はどう思うか、と聞かれたのです。デリケートな問題ですし、誤解を受けることを恐れて、数泊諮詢しました。そして以下のように語りました。
そのような活動をしている人を全面否定するつもりはない。私も広島、長崎の原爆資料館に行って見たことの衝撃は忘れない。(本当に泣き崩れてしまいました)しかし、戦争による死の苦しみは、原爆だから特別ではありません。全ての戦死者の死は、当人にとっては比較するものではありません。一発だから特別ではなく、一人一人の苦しみの積算は比較するものではありません。戦争の悲惨さは原爆だけではなく、人の死は心するべきです。
しかしです。当事者でない人に関しては、その悲惨さを共感できますか?原爆に限らず、死にゆく人の悲惨さを共感できますか?なにより、1日後に、それをどれほど共感し続けて、かつ、行動に繋げられますか?それが無いから、イジメがなくならないのです。
日露戦争の賠償金が少ないことを訴えた大衆は、戦死者の苦しみを思っていたでしょうか?戦死者の家族は賠償金が多ければ癒やされましたか?
日中事変の時、「これで自分たちも豊かになれる」と思った大衆が後押ししたのです。その人たちに戦死者の悲惨さを伝えたら、何か変わりますか?いくらでも合理化します。
ゼミ生は「どうしたらいいのですか?」と聞きました。私は以下のように語りました。
国民が自分一人一人が主権者であることを理解する教育が必要。主権者ではない人は流される。しかし、本当の主権者がそれが自分にとって得か損かを考える。自分が戦死者の一人になること、一方、自分の家族を守ることの損得勘定をちゃんとするようになる。これが出来れば、安易に戦争に至らない。だから、戦争を仕掛ける国は独裁国家。
私は平和を実現するために、戦争の悲惨さを伝える活動の効果は限定的だと思います。むしろ、戦争をすれば圧倒的大多数にとってそんであることを伝え、自らの判断で選択できる国民を育成すべきです。
ならば、啓蒙的専制主義で運営されている現在の学校教育は「罪」であり、反平和主義です。教育基本法第一条にあります。
- 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
教師は啓蒙的専政君主であってはならない。啓蒙的啓蒙君主のようにいわゆる「平和教育」を強いてはならない。それが正当ならば、強いなくても、子どもたちはそれを選択します(ただし、全員ではありません)。