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学力

 『学び合い』では学力とはテストの点数の上昇で計量します。学力はそれのみではないことは十分に理解していますが、テストの点数「ごとき」をあげられないのに、それ以上を狙っているとしたら噴飯物です。

 さらに、学力とはテストの点数が中心であることは証明できます。

 みなさん、教育には目標があり、その目標が達成したかを評価します。従って「目標=評価」なのです。ここまで問題ないですよね。さて、評価はどうやってしていますか?その多くはテストの点数でやっているはずです。ということはテストの点数を上げることが目標となります。それだけではないという方は、その大事なものを評価しなくていいのですか?つまり、その程度のレベルと認めていませんか?と言いたくなります。

 さらに、少なからざる教師の怒りを買うような調査もしました。高校国語教師の方にある文章を示し、それの解釈を書いてもらったのです。そして、他の国語教師のうち同じ解釈の教師の割合はどれぐらいかを見積もってもらったのです。その結果、実にバラバラの解釈が出てきました。その一方で、ほぼ全ての国語教師は全員が同意見だと見積もったのです。ま、ありがちですよね。私の知る限り、読みの力のような学力(その他の学力も)について万人が一致する事例を知りません。もっと言えば、たった一つの学会においても同じです。みんな学力という言葉を使っていますが、一人一人が違った意味で語っているのです。

 そんなことを知っているので、学力を云々する議論に付き合う気持ちにはなれません。文部科学省での議論も、その拡大版ですね。

 近代科学においては抽象度の高い概念を定義する方法として、どのような方法でそれを判定するかを明確にすることによって定義します。操作的定義です。文部科学省の文章のキーワードを操作的に定義できるかをチャックしてください。100%は定義できない概念を基礎として定義しているはずです。つまり科学的には全く無意味な議論なのです。

追伸 理学部出身の私が教育学の大学院に進学した際に、古典と呼ばれる本を読みあさりました。ところが未定義な言葉を元に、新たな未定義な言葉を紡いでいるので、はっきりと言って気持ち悪くなったことを思い出します。でも、多くの人が古典と呼んでいるのだから、私の読み取れないのかと思い、多くの本を読みました。結論、無意味だと理解しました。しかし、可能性を感じました。理学部出身のものからかんがえて噴飯物と判断できる本が古典と崇められたいるのです。だったら、徹底的に理学部的な方法論でやれば、凡庸な一学生でも業績が上げられると思いました。事実そうなりました。大学院在学中の3年間に3つの日本の学会誌に受理され、一つの海外雑誌(ジョン・デューイが作った学術雑誌)に受理されました。さらに、その後に3つの学会誌に掲載される論文を書き上げ投稿しました。これは准教授に昇任されるに十分な業績です。不遜ですが、私は生涯において二百以上のA論文(大学教員の人事でカウントされるレベルの業績)を書きましたが、私にとって業績を上げるのはいともたやすいことです。ま、余談ですが。