呪縛
オフラインでもオンラインでも、ゼミ生である限り、脱工業化社会の考え方も「あるな」と思えます。しかし、8割以上は、ゼミを出ると見事に工業化社会に戻ります。それを残念に思いますし、自分の無力さを感じます。だから、ゼミを卒業することを、呪縛から解き放されるという表現を使っていました。
でも、考えてみれば当たり前です。世の中の人の6割強は理屈ではなく周りの人に合わせます。2割のラガーとは西川ゼミには入りませんがマジョリティは入ります。オフラインゼミの学生の8割以上は、「居心地がよさげ」で選んでいますから。『学び合い』で運営されている集団は居心地はいいですから。
逆に言えば、ゼミに入らなくて授業レベルの『学び合い』が分かる人がいます。でも、生き方レベルの『学び合い』は口伝以外には分からないだろうし、それを維持するには口伝が必要ですね。まあ、禅宗の修行みたいなものです。
長々書きましたが、ようは、多くの人は周りの人の呪縛から逃れられない。もちろん、尊敬すべき、愛すべき人たちであることを否定しません。ただ、その人の退職後に、その人たちの授業の仕方、生き方で、生き残れるかは別なのです。
あ~、言うべきで無いことを今日も書いています。ま、この手のことに耐性のある人だけが読むでしょうけど。
コード
工業化社会人はそのコードから逃れられない。どんなに革新的な発想でも、脱工業化社会人からみれば、「それって、改善であって、改革でないよね。改善レベルで問題を解決できるの」と思います。工業化社会人を否定するつもりはありません、今の社会を守っているのはその人たちです。ただ、これからの社会を創るのは脱工業化社会人です。
両者を判別する簡単な方法があります。教育の言説の場合、その主張の主語が「教育委員会・学校・教師」であるか、「一人一人の学習者」かで簡単に判別できます。工業化社会人は一人一人の学習者がコントロールする教育を想定することは出来ません。
追伸 西川ゼミの卒業生だったらわかります。「西川先生」か「ゼミ生集団」かです。多くの先生方は西川ゼミを理解できない。何故なら、「ゼミ生集団」によって一人一人の判断できる状況になること、それでうまくいくことを想定できない。考えてみて、私がコントロールして、よりよくなる部分って、ある?全くないよね。でも、多くの教育関係者は、それが理解できない。
多くの教師は、自身のやったことによってうまくいったことを誇る。でも、私は、私が何もしないのに上手くいくことを誇る。もちろん、何もしていないわけではありません。しかし、ゼミ生に「私は何をしている?」と聞いて、誰も答えられないのです。
今できること
私の発言は過激で荒唐無稽と思われる方が多いと思います。しかし、私の過去発信、書籍で予言したこと、「広域通信制が広がる」、「フリースクールが広がる」、「学びの多様化校に行政がシフトする」、「働き方改革が進む」、「部活動が学校外にシフトする」等々の予言はどうでしたか?書いた当初は過激で荒唐無稽と思われたと思います。そして、私の演出のレトリックだと思われたと思います。しかし、今はどうですか?少なくとも私をフォローしている人にとっては当然の流れであることは、それに関わることも合わせて実感されていると思います。レトリックではなく、私にとっては自明なことを言っているだけのことです。
でも、「そんなの無理」と思う方、「明日の授業で、学校運営で」と思っている方には乖離が激しい。『学び合い』の提唱者が過激すぎて、ご迷惑をおかけしているかもしれません。
でもね、多くの実践者が出来ることは、授業レベルの『学び合い』を実践することなのです。自分の実践が子どもたちの未来を、それも一生涯の未来を保障していることを実感して欲しい。その姿が、「私もやってみたい」という人の広がりを導きます。そして、あなたの他に二人の共感者を生み出し、週に1度でいいから合同『学び合い』をしてください。学年が違っていいのです。教科が違っていいのです。いや、違った方がいい。やれば、その良さを実感するはずです。長年、『学び合い』を実践している教師が「異学年、異教科の『学び合い』は無理」と言っていました。だったら実際を見てと言って、実践している学校に連れて行きました。「さあ、どうぞ」のあとの子どもたちの姿を見てびっくりしていました。そして、笑いながら「私は馬鹿でした」と言ったのです。そうです合同『学び合い』は簡単です。それを広げて、最終的に全校『学び合い』にするのです。最後まで拒否する先生がいてもいいですよ。反対者がいないのは、宗教かファッショの証拠です。やりたい人がやって、子どもたちと自分を守ればいい。
とりあえず、ここを目標としてください。
それが実現する頃には、私が本日書いたことが「あ~、そういうことなんだ」とわかるぐらいの状況は生まれるはずです。そして、数年後は、次の時代に必須の人材を多く育てたことに気づくでしょう。
つまり、今日の段階で私が書いたことは聞き流して結構です。そのときになったら思い出してください。今からそのときまでに必要な情報は、全て本にまとめています。
追伸 私はSNSや書籍で発信している予言は10年弱の予言です。でも、私の頭の中には20年後、30年後の予言があります。でも、そんなの書籍で書いても売れないし、SNSで発信してもドン引きされるから公表しません。口伝で伝えられる人の範囲で、補足説明が出来る範囲で求める人にだけ伝えています。
インスパイアー
最近、別件でFさん(私とつながりがあるとわかると仕事上不都合があるので、匿名にします)とZoomで繋がりました。その中で、AIが発展していることを驚いたことを話したら、質問して応えてもらうレベルではなく、プログラミング言語を知らなくても2時間ほどでアプリが開発できることを聞かされてビックリしました。AIがアプリを開発できることは驚きません。プログラミング言語は限定的で、かつ、論理的です。しかし、私がビックリしたのは、人間の曖昧な要求を理解し、それをもとにプログラムできるというインターフェイスの部分です。話が終わってから、しばらくボーッとしてしまいました。
一拍おいてから、最近のAIのことを調べて、アプリを開発する以上のことが出来ることを理解しました。有能な部下を育てることが出来るのです。教師を含めた、医師、歯科医師、薬剤師、会計士、弁護士といったあらゆる士業は崩壊だなと思いました。おそらく、医師は不要というのはありません。一人の医師が、その責任でAIを使って業務をするのです。医師会等の圧力団体は抵抗すると思いますが、長くは持たないでしょう。
さらに、ホワイトカラーは不要になります。あらゆる仕事が一瞬で終わります。営業活動も、AI同士が行うようになるでしょう。税務調査も税務署と会社・個人のAIがやりとりするでしょう。
つまり、現在の学校教育での学歴によって到達できる職種が崩壊するのです。
この変化は私の予想より早くなりそうです。なぜなら、人件費のカットは企業の競争力に密着しています。現在の労働法の縛りによって、生首は切れないでしょう。しかし、採用者を極限まで削るでしょう。残るのは、グーグル等の入社試験でやるような答えのない問題に対して、チャーミングな回答を言える幹部候補だけになります。それらは現在の学校教育を100年受けても獲得できません(ま、私の本で書いたようにケンブリッジ、ハーバードレベルで古くからやっている方法で採用している大学は例外として。日本では、一校もありません)。
想像してください。東京大学の卒業生の8割が就職できない世界。そんな世界に、子どもや保護者は1条校に何の魅力を感じるでしょう。
未来が見えます。先が見える人ならば、中学まで学校に行きます。1条校に1日もいかなくても中学校の卒業証書はもらえます。そして、職人に弟子入りします。もしくはブルーカラー的な仕事に就業します。
また、中長期の情報収集に基づく個人にカスタマイズされたサービス・製品を中学校区レベルの人的ネットワークの中で提供する仕事に就くでしょう。(つまり、中学校区レベルの『学び合い』が育成できる成果です)
もう一つは、早い段階で1条校を見限って、以下で述べるようなフリースクールに集います。一言で言えば、西川研究室が最終的に到達した姿です。
何をやるかは決めません。学校が提供するのは、物理的に集えるスペース、ネット環境、給食です。子どもたちは1週間に1度程度集まります。集まる時間は教師が複数の日時を指定し、子どもたちが自由に参加します。子どもたちは森羅万象のことを質問し、教師はそれに対して答えます。その中で、幸せとは何かを伝えるのです。そこでの教師に教科の能力は必須ではありません。何故なら、子どもたちが必要とすることは教科のことではないのです。そんなの知っても、未来に繋がりませんから。知りたいことがあったら、人に聞いたり、AIに質問すればいい。AIは間違ったことを言うからダメだという人がいますが、噴飯物です。だって、人だってそうでしょ。結局、人同士が繋がって相談し合っていれば、大抵は修正されます。それに現在のAIは複数の独立したAIが相互評価するし捨てもさえ簡単に構築できますから。そして、多くの子どもたちはClaude Codeなどを使って自分に個別最適化されたAIを育てることになるでしょう。
そのような場面になれば、当然、政府も対応するでしょう。しかし、改革の中心は文部科学省ではなく経済産業省であるべきだと思います。理由はその世界の最大の問題は、就業先が求める能力と学校が提供する能力がミスマッチしているからです。就業先が求める能力を明確にして、正しくマッチングするシステムの構築が必要になるでしょう。
さて、『学び合い』の同士の方々に申します。みなさんは変わらなくてもいい。そのまま、世の中の推移を見守ってください。
世の多くの教師は、問題が起こるとその解決策を考えようとします。世にある教師本の圧倒的大多数はそうです。しかし、『学び合い』は違います。健全な集団さえ育てれば、解決策は集団が生み出します。もしダメだったら、集団が多様な方法を柔軟にやり続けます。教師のすべきことは解決策を示すことではなく、集団、特にリードするメンバーに、それをみんなで解決することが得であることを納得させることなのです。
SFのような上記のような教育の場で教師が持つべき能力は、まさに、それなのです。そして、子どもたちが大人になる前に、いや、大人になってからも獲得し続けるひつようなのは、解決策ではありません。それはAIに求めればいい。大事なのは、自分が経穴し続けることが得であること、つまり、その先にある幸せをリアルにイメージし、自らを突き動かし続ける能力なのです。教師はその姿によって、それを示すのが仕事です。
追伸 では、私はAIを学び、本格的に利用するかと言えば、しません。理由は、私は幸せであり続ける仕組みを構築し終わっています。家族という小集団の世界の中で完結しているので、AIを必要としていません。もう一つあります。
今のAIの業界は、初期コンピュータ、インターネット普及の初期を同じです。何が勝者になるかが定まっていません。それに情報の更新速度が速すぎます。AIを学んで使えるとしても、その能力の賞味期限が極めて短いのです。しかし、どんな製品、サービスも無限に成長するわけではありません。やがてコモディティ化します。変化が小さくなります。そうなると、能力の向上ではなく手軽さ、簡単さに重心が移ります。例えば、簡単な質問に答えると、その人に合った初期設定が設定されるようになるでしょう。そして、複雑なコマンドが不要に、単に要求することを積み上げれば、個人にカスタマイズされるようになる世界がきっときます。そうなったら、使うかもしれません。ただし、現役の方々は今すぐClaude Codeを学ぶことを勧めます。これからの世界では、AIを使えるか使えないかが勝者と敗者を決めますから。
もしかしたらスカイネットが支配する世界になるかもしれません。そうなったら恐竜が退場したように、人類が退場するしかありません。これは生物世界の理ですから。