お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2011-03-08

[]自力解決 20:06 自力解決 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自力解決 - 西川純のメモ 自力解決 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ちょっと前まで、携帯で答えを調べた学生が逮捕された事件がありました。現状の試験方法を考えれば、明らかにルール違反です。でも、自力解決とは何かを考えてほしいな~っと思います。

 言うまでもなく、本来の教育は大人になるためにあるものです。さて、大人社会での自力解決を思い出してください。もし、仕事で分からないことがあったとき、インターネットで調べ、それを解決した人がいたとします。その人が上司からペナルティを問われるでしょうか?まずないと思います。オリジナリティを強く求められる研究職でさえ、出典を明らかにしているならばOKです。そして、そういう調べ方を知っている人と、知っていない人を比べたら、おそらく前者の人の方が有能と判断されるでしょう。ありとあらゆる資料を参照できず、ノートと消しゴムだけで問題解決を求められる状況が、大人の社会であるでしょうか?ほとんどないと思います。いったい、何のための能力を調べているのか、私には分かりません。

 似たような変な現象が学校にあります。ある問題を与えて、「はい、自分で考えて」と求めることがあります。でも、その問題を解くために、教科書を見たり、ノートを見ることは制限されることはまれです。でも、本当に自力解決を厳密に適用すれば、教科書もノートも見ないでというテスト状況でやるはずです。でも、勉強する段階ではテストと違って教科書やノートを利用することはOKなのですね。でも、では他人という資料を使うことを制限するのはなぜなのでしょうか?私には分かりません。ま、安易に答えを丸写しにするのを避けるという理由を述べる方もいるでしょう。でも、そんな子は、「はい、自分で考えて」と言っている間は何も考えず、「はい、相談タイム」と言ったとたんに安易に答えを丸写しにするはずです。(これに対する対応策に関しては、別の時に書きたいと思います)

 オリジナリティが強く求められる自然科学の研究においても、どんどんビックサイエンスになっていて共同研究が一般的です。そこでは、どこからが誰、どこからが私という切れ目はありません。徹底的な議論によって研究が進められています。

 なんかまとまりがないですが。ようは、現状の学校で考える自力解決、あまり意味無いように感じるのです。

追伸 むりし、携帯もOK、いやコンピュータでインターネット検索もOK、いやスカイプで他の人と直に聞くのもOKの試験の方が良いように思います。そこでは、実際にその大学で研究しているテーマを与え、解決を求めるのです。その方が、リアルな能力を測れる。

 博士課程のテストでは、専門では差がつかず、英語でも差がつかない。結局、第二外国語のドイツ語のテストの結果が決定打になる大学もあります。でも、今時、ドイツ語の論文が読めるか読めないかが研究能力に関わる分野はほとんど無いでしょうが・・・・

[]原因はどこ 19:46 原因はどこ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 原因はどこ - 西川純のメモ 原因はどこ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 問題の原因はどこにあると考えることで、そこからの対応が違います。そして、『学び合い』の場合、普通とだいぶ違います。たいていの先生は問題のその子を何とかします。が、『学び合い』では、集団を何とかしようとします。

 場面緘黙の子がいたとします。善意の先生は、その子に言葉の指導をします。でも、その子は家ではしゃべれるのですから、言葉の能力の問題ではないですよね。また、その子に勇気づけをしたりします。つまり、その子の問題だと考えるからです。確かにそれもあるかもしれません。でも、その子を何とかして何とか出来るものだったら、とっくのとうに変わっているはずです。おそらく、教師の何百倍、何千倍も実の親が勇気づけしているのですから。

 その子が変わる可能性と、その子以外の子ども「たち」が変わる可能性とどちらが高いでしょうか?明らかに、その子以外に変わりやすい子どもはかなりの人数はいるはずです。家の人とはしゃべれるのですから、家の人と似たような人であると認識してもらえばいいのです。ではどうしたらいいか?

 そんなの分かりません。その子が場面緘黙になる原因は様々なのですから、様々な子どもが様々に関わりながら「ビンゴ」を探すしかありません。今のところ、専門家でさえ「ビンゴ」方法を見いだせないのですから。だから、先生が「その子」に話し方を教えたり、「大丈夫よ」と連呼するよりは、まし、だと思うのです。

 また、子どもがきつい言葉を同級生に発していたとしたら。おそらく、多くの教師は、きついかきつくないかが子どもが分からないと考え、言葉遣いを教えようとします。でも、きついかきつくないか子どもは分からないのでしょうか?私は分かっていると思います。だって、そのような言葉を使う子どもだって、相手によって言葉を換えているはずです。だから、きついかきつくないかを知っていないのではなく、きつい言葉を押さえようと「する気」がないのが原因です。では、その子に「きつい言葉はやめよう」と連呼したら直るでしょうか?私はそう思いません。

 おそらく、その子が変わるより、その子の周りの子どもが変わる方が可能性が高い。その子が、きつい言葉をかけるのを押さえようと思えるような人に、周りの子どもが変わる方が可能性が高い。ではどうしたらいいか?そんなのわかりません。その子がきつい言葉を発する原因は様々なのですから。様々な子どもが様々に関わりながら「ビンゴ」を探すしかありません。

 学級崩壊にせよ、不登校にせよ、問題の子どもを何とかするより、周りの子どもを何とかする方が可能性が高い。と『学び合い』では考えています。

 じゃ絶対?と聞かれたら、そうは断言できません(解決した事例だったら山ほどありますが)。でも、そう言われたら逆に聞くのは、「じゃ、あなたは絶対な策があるの?」と聞きます。ありませんよね。ましてや、教師が必ずしもその道の専門家ではありません。であれば、クラスみんなで関わりながら解決する方が「まし」と思うのです。

 その際、大事なのは、それを解決することが自分にとって「得」であることを子どもたちに納得させることです。道徳の徳目では人は動きません。実は道徳とは、多くの人にとって「得」な合意点であることを理解させねば。それが何よりも大事です。それがなければ、どんな方法も無意味です。逆に言えば、それさえあれば、どんな方法であっても、そして、それがなくても解決に結びつきます。だって、教師が示す方法が最善であることはあまりないですから。結局、教師が例示したとしても、それを超える様々な方法を子どもが案出し、試みるしかないのです。

 ということを本日の個人ゼミで話しました。