■ [大事なこと]手の内
定期的にアップしていることです。超長文です。私は学生と議論するための手の内です。ま、うまく使って下さい。
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議論のルール
西川に従来指導型授業の卓越性を納得させることが、このディスカッションの目的です。従って、納得したか否かの判断は西川が行います。ただし、出席者の3分の2が学生の方の論が正しいと認める場合はその限りではありません。
学習指導要領で定められた最低限の学力と居心地の良い環境を全ての子どもに保証することを第一優先とします。従って、一部の子どもを除外する議論は今回の議論の範囲外です。
子どもを一人も見捨てないと同時に、教師も一人も見捨てません。一部の子どもや教師を切り捨てる議論は今回の議論の範囲外です。例えば、「教師はそうすべきだ、そう出来ない教師は辞めるべきだ」という議論は今回の議論の範囲外です。
『学び合い』はパーフェクトと主張しているのでは無く、従来より「まし」であることを主張しています。
以下は対象としていません。
子どもが乳児(乳児は親子のコミュニケーションが中心になるので)
子ども集団が全体で十人以下(『学び合い』が機能するためには一定人数は必要だからです。)
教師がコントロール出来ない個人(管理職や保護者)に起因する問題。(『学び合い』は集団を動かす理論であり、個人には適用出来ません)ただし、職員集団、保護者集団は集団ですので除外しません。
グループ人数は自由とします。また、一人でもOK。また、グルー編成は固定しません。つまり、自由。
同じ議論を別の日に繰り返すことを妨げません。別の班が行うことを妨げません。
授業時間に集まって議論する。議論出来ると思った時に申し出て下さい。その際、他グループは議論をいったん止め、議論を聞いて下さい。
議論の申し出は11時15分までとして下さい。それ以降は次回に申し出て下さい。前のグループの議論が11時15分以降になった場合も同じ扱いとします。
なお、「従来は出来なかった、これこれは 『学び合い』では出来るか?」はOK
手の内
『学び合い』に対して様々な疑問を受けます。当然です、今までと見た目がかなり違いますから。みなさんも同様」な質問を受けると思います。以下が私の定型的な応え方です。
まず、「『学び合い』をすると丸写しをする子が生まれるのではないか?」のような「『学び合い』では●●がおこってしまうのではないか?」という疑問と、「『学び合い』で本当に分かるのか?」のような「『学び合い』では●●はできるのか?」疑問が典型的です。
まず、前者に対する対応法です。
「では、今までの授業で●●はおこっていないのですか?自由にさせたとたんにそれがおこるならば、子どもの本質は●●なんではないですか?そのような子どもに指導して変わりましたか?変わらなかったですよね。それはしょうがありません、そのような子どもは歴代の担任が同じように注意して、改善しなかった子どもですよね。あなたとでは無く、教師と相性が無いのですから、どうしようもありません」と話します。
これに対しては、「私は出来る」、「それは教師がすべきだ」という反応があります。その場合は(1)に進んでください。「なるほど、今までの授業でも改善できないよね」という場合は(2)に進んでください。
(1)「たしかにあなたならば出来るのかもしれません。しかし、あなたの次の担任の時はどうしますか?進学先ではどうしますか?」と言います。
これに対しては、「私は出来る」、「それは教師がすべきだ」という反応があります。その場合は(1-1)に進んでください。「なるほど、今までの授業でもそのレベルは改善できないよね」という場合は(2)に進んでください。
(1-1)「素晴らしい。あなたは『学び合い』で無くても良いと思います。でも、そうできない教師もいます。『学び合い』はそのような教師のためにあります」と言って議論は終わりです。先のルールに書きましたように、一部の教師を切り捨てる議論は今回の議論の範囲外です。
(2)「『学び合い』は現状の問題点を教師の管理下で露わにして、教師の管理下で解決する根治療法をする教育です。では、どのように解決するか?教師がその子を変えようとしても無理です。でも、教師の言うことを聞く子どももいます。その子たちが中心となって、一人も見捨てない学習集団を育成します。あなたが気になる子どもは教師の言うことを聞かないかもしれませんが、クラスメートの言うことは聞きます。そういう仲間を創れば、進学先でも社会に出ても問題を軽減する可能性があります。教師が先読みして手立てを講じれば、問題が起こらないようにすることも出来るかもしれません。しかし、それは問題を先送りする対処療法です。『学び合い』は根治療法を願っています」と語ります。納得するか否かは別で、このようになればたいていの場合は、話の筋は通っていることは分かって頂けます。
「『学び合い』で本当に分かるのか?」のような「『学び合い』では●●はできるのか?」という疑問に対する対応法です。
「では今までの授業で●●はできていましたか?クラスの中には東大に行きそうな子どもがいる一方、知的な障害が疑われる子どもがいます。子どもたちは毎日毎日の授業のたびに、様々な疑問を持ちます。文科省の統計によれば子どもの3割は塾・予備校・通信教材・家庭教師で学んでいます。そして、多くの教師は成績中の下に合わせた授業をします。ということは3割近くの子どもにとっては、退屈な授業となっています。その子にはより高度な学習を与えるべきですね。でも毎時間、発展教材を用意したら、教師がパンクしてしまいますね。」と聞きます。
これに対しては、「私は出来る」、「それは教師がすべきだ」という反応があります。その場合は(3)に進んでください。「なるほど、今までの授業でも改善できないよね」という場合は(4)に進んでください。
(3)「たしかにあなたならば出来るのかもしれません。しかし、あなたの次の担任の時はどうしますか?進学先ではどうしますか?」と言います。
これに対しては、「私は出来る」、「それは教師がすべきだ」という反応があります。その場合は(3-1)に進んでください。「なるほど、今までの授業でもそのレベルは改善できないよね」という場合は(4)に進んでください。
(3-1)「素晴らしい。あなたは『学び合い』で無くても良いと思います。でも、そうできない教師もいます。『学び合い』はそのような教師のためにあります」と言って引き下がります。先のルールに書きましたように、一部の教師を切り捨てる議論は今回の議論の範囲外です。
(4)「子どもたちは一人一人、違った学びを必要としています。それらに一人の教師が対応することは不可能です。理屈は簡単です。一校時をクラスの人数で除してください。1分少々ですね。さらに授業の大部分が1種類の説明で押し通したとしたら、個別支援が出来るにはごく僅かの時間です。それをクラスの人数で除してください。十数秒ですよね。これは無理だ。どんなに教師の指導が優れていたとしても十数秒では無理ですよね。例えばです。アフリカの飢餓地域に千人分の高級栄養食材を送るのと、そのお金で十万人分のくず米を送るのでは救われる子どもはどちらが多いでしょうか?取り出した1、2人に放課後1時間の指導をするのより、毎日、子ども同士が教え合う方が良いのでは無いでしょうか?第一、本人が勉強する気が無ければ全ての教材や指導法は無効です。逆に、本人が勉強する気になればどんな教材でも有効です。では、いままで勉強する気を持たなかった子に持たせるにはどうしたらいいでしょうか?おそらく、様々な教師が指導して無理だった子だと思います。だったら、同級生の「一緒に勉強しようよ」の方が可能性があるのでは無いでしょうか?さらに今まで「もう分かっているよ・・・」と思っている学習済みの子どもは教えることによって学びます。教えることが勉強になることは教師が一番分かっていることだと思います。そして、周りの子どもから「ありがとう」と言われます。勉強は出来るが、対人関係が不得意な子どもが周りとつきあい始めるきっかけになるのではないでしょうか?少なくとも現状よりは「まし」だと思います。もちろん、先生が育てたいと思っている教科の本質の部分は直ぐには教えられないかもしれません。でも、それを授業で扱うためには、クラス全員の底上げをしてからだと思います。そうでなければ、クラスの一部だけが分かって、最後に数人から素晴らしい発言があってめでたしめでたし、という授業になりかねません。もし、クラス全員が一定レベルの学力が保証されたならば、素晴らしい授業が出来ると思います」と語ります。納得するか否かは別で、このようになればたいていの場合は、話の筋は通っていることは分かって頂けます。
以上が私の手の内です。
■ [大事なこと]美味しい
私が飛び込み授業をするときは、一番大変なクラスでやることをお願いします。出来れば、学級崩壊しているクラスが最高です。
理由は簡単です。学級崩壊しているクラスの方がいいクラスになるのは容易くて、私は良い魔法使いのように感謝されるからです。つまり、美味しいのです。
学級崩壊しているクラスは従来型の授業は受け付けません。まあ、参観者が居並ぶ中ではしばらくは聞いたふりをしますが、5分ぐらいから崩壊し始めます。
学級崩壊するクラスには、かなり頭の良くてソーシャルスキルの高い子は3人はいます。そして、その子達はクラスのオピニオンリーダーです。『学び合い』でまっとうなことを求めれば、その子達は従います。その子達が従えば、周りが従います。もちろん、最後まで遊び回る子どもはいるかも知れませんが、クラス集団がそれを押さえます。
ということで2時間で魔法のようにクラスを変えることが出来ます。
その変容を「『学び合い』はクラスが出来上がっている状態でなければならない」という人に見せてあげたい。ちなみに、これは学卒の学生でも出来ます。『学び合い』はシンプルですから、現場経験の無い学生でも出来ます。
そのことを私に依頼することも可能ですが、かなり高額になります(http://jun24kawa.jimdo.com/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%B3%AA%E5%95%8F-%E4%BB%95%E4%BA%8B%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E8%AC%9B%E6%BC%94%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3/)。しかし、ゼミ生ならば旅費を手当てしていただければ派遣します。魔法を見たい方、どうぞ。
■ [ゼミ]新歓
本日は西川ゼミの新歓コンパがあります。本学には160のゼミがありますが、西川ゼミが全院生・学生の25分の1が所属しています。こんな変なゼミによくぞ入ってくれた。その一点で愛するに値します。
■ [大事なこと]典型的な誤解
私が本で書いている、超シンプルな『学び合い』に対して典型的な誤解がいくつかあります。例えば、クラスがいい状態でなければ出来ない。例えば学級崩壊しているクラスでは出来ない。という誤解です。
ま、気持ちは分かります。でも、視点を変えて下さい。
じゃあ、そんなクラスを一斉指導で立て直すことが出来ますか?そりゃ、もの凄く力量のある、オーラのある先生だったら出来る「かも」しれません。でも、圧倒的大多数の教師が出来ますか?それにオーラのある先生だったとしても、なんで、そんな人が学級崩壊を引き起こすのですか?
『学び合い』に対して、「これこれの場合は出来ないだろう」という指摘の多くに対して、「じゃあ、今のままでどうやるの?」と聞き直せば、黙ってしまいます。
そもそも学級崩壊している状態において子ども達は誰に対して反発しているのですか?
教師ですよね。
その教師が前面に立つ、今までのやり方で解決出来ますか?
無理ですよね。
『学び合い』の場合は「一人も見捨てず」という教師に反発している子どもも反対しづらいことを求めています。何故なら、教師に嫌われてもいいと思っている子どもも、クラスのみんなから嫌われるのは嫌ですから。
学級崩壊しているクラスにおいても、教師がちゃっと語れば従う子どもはいます。その子と始めればいい。教師一人で解決するより、子ども達と一緒に解決した方がいいに決まっています。
また、今までの指導法と併用した『学び合い』の方が安定するという誤解もあります。これは授業名人の人にある誤解です。でも、今までの指導法を併用しつつ、『学び合い』を成功させるには名人級の技が必要なのです。何故でしょうか?
校長に置き換えましょう。
総合的な学習の時間で学校の研究をすすめ、発表会に成果を出す学校を想像して下さい。その学校の校長は総合的な学習の時間の実績がある人です。色々なことを知っています。
その校長が色々なアドバイスをしつつ、かつ、職員が自分の頭でアイディアを出す状態を考えられますか?私には想像できません。校長が何か言えば、それがいいんだろうと思うし、それに従わなければならないんだろうと職員は思います。校長にその気が無くてもです。やがて職員は依存的になります。まあ、見てくれの良い発表は出来るでしょう。しかし、どこまで行っても校長のカーボンコピーです。そして、カーボンコピーはオリジナルを超えることはありません。
もう一方の場合を考えましょう。その学校の校長も総合的な学習の時間の実績がある人です。色々なことを知っています。しかし、校長は細かなことは何も言いません。発表会がどれだけの意味を持っているかは最初に語りますが、それ以降は職員に任せます。職員が「校長、どうしたらいいですか?」と聞いても、「先生はどうしたらいいと思いますか?先生の思うとおりにやってみて下さい」とニコニコしています。当然、各クラスの達成度には高低があります。校長は素晴らしい発想があるときに、それをみんなの前で褒めます。そして、学校はチームであることを強調します。
さて、二つの校長の学校のどちらが職員が成長しますか?
私は後者だと思います。
■ [大事なこと]コア
『学び合い』は「一人も見捨てず」を中心とした考え方です。ただ、徳目として「一人も見捨てず」ではなく「一人も見捨てず」は自分自身にとって得だと教えます。自分の利害に一致しないものは続きませんから。
アクティブ・ラーニングは方法は自由です。しかし、どう考えても『学び合い』以外に実現できないと思います。理由は以下の通りです。
アクティブ・ラーニングは主体的な学びです。
ところが主体的になれない子どもはいます。『学び合い』では一人も見捨てずなので、他の子どもがその子が主体的になるようにサポートします。一方、一人も見捨てず、を中心にしていなければ、そんなことは起こりません。そのため、教師が主体的になるようにサポートします。しかし、教師は一人です。同時に一人しかサポートできません。そのため、従来型の一方向の指示を与えるしかありません。世にあるアクティブ・ラーニングの実践が、その大部分の時間を従来型の一方向の授業になっているのはそのためです。しかし、そんなのはアクティブ・ラーニングではありません。
アクティブ・ラーニングは協働的な学びです。
ところが協働的になれない子どもはいます。『学び合い』では一人も見捨てずなので、他の子どもがその子が協働的になるようにサポートします。一方、一人も見捨てず、を中心にしていなければ、そんなことは起こりません。そのため、教師が協働的になるようにサポートします。しかし、教師は一人です。同時に一人しかサポートできません。そのため、従来型の一方向の指示を与えるしかありません。世にあるアクティブ・ラーニングの実践が、その大部分の時間を従来型の一方向の授業になっているのはそのためです。しかし、そんなのはアクティブ・ラーニングではありません。
アクティブ・ラーニングは「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成」しなければなりません。しかし、残念ながらこれを意識しているアクティブ・ラーニングを『学び合い』以外に知りません。教科学習のアクティブ・ラーニングは認知で、教科外学習のアクティブ・ラーニングでは倫理的、社会的能力を育成すれば事足りると思っています。いや、一方だけでいいと思っている。何故ならば、実現不可能だからです。
ところが、『学び合い』は「一人も見捨てず」を、徳目として「一人も見捨てず」ではなく「一人も見捨てず」は自分自身にとって得だと教えます。だから、自然と「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成」されます。
以上、証明終わりです。