■ [大事なこと]銘酒は水になる
いい酒は水になると私は固く信じています。美味しい酒というのはあります。でも、そういう酒は食事・酒席の邪魔になります。邪魔にならなくとも、続けて飲み続けると、鼻につきます。いつもいつも、美味しく飲める酒というのは、水みたいな酒です。
今から10年ぐらいまでは、私は「素晴らしい指導法」というのを目指しました。全然分からない子どもに、一言、説明したならば、「あ、そうか!」と納得する、凄い説明方法を求めていました。でも、それって、ありがちです。世にある教師用の本は、そのようなものであふれています。子どもに見せたら喜ぶ教材、子どもが涙を流す話・・。私はそれを求めていました。認知研究の結果、認知的ギャップのある教師にはそれが無理だと分かった後、認知的ギャップの少ない子どもに、それがあると求めたことがあります。子どもが他の子どもに、教師の思いもつかないような素晴らしい説明の仕方をするのではないかと思いました。その説明の仕方を蓄積することによって、教師は素晴らしい説明を連続できるようになれる、と思いました。しかし、結果は散々でした。いくら子どもたちの会話を分析しても、そんな「素晴らしい説明」なんてなかったんです。子どもたちは、ごくごく普通の会話をしていました。でも、そのごくごく普通の会話をしているにもかかわらず、その結果として、教師がとてもとても到達できない境地に達することが出来ます。そういうことを学ぶことが出来ました。学習に必要なのは、凄いことではないんです。ごくごく普通のことで十分なんです。その、ごくごく普通のことで、凄い成果が期待できるんです。このような結論、確信は、私の学んだ、どんな教育研究も言っていないことです。
本日、Obさんと、障害児教育に関して話しました。我々が明らかにすべきことは、「凄いこと」では無いんです。ばからしいほど当たり前な、子どもたちの会話の積み上げが、どんな素晴らしい指導より、素晴らしい成果を「定常的・永続的」に上げ続けることなんです。
多くの心ある教師は、自分がどう対応していいか悩む子どもを、自分のクラスの子どもがこともなげに対応していることに気づいているはずです。そして、その子どもたちの普通の対応によって、自分がどう対応していいか悩む子どもが、いつのまにか普通の子どもになっていることに驚いたことはあるはずです。でも、それにも関わらず、その子どもの普通の対応の凄さを見過ごし、「素晴らしい指導法」を求めているのではないでしょうか?本当は、目の前にある普通こそ、本当に素晴らしいのだと思います。これから2年以内に、我々の同志はこのことを学術的にもきっと明らかにしてくれると、期待し、確信しています。
■ [頑張る]志
昨日の講演会の後の懇親会の最後に、以下のようなことを言いました。
『私が語りたかったことはテクニックではなく、考え方です。考え方はテクニックと違って伝えるのは難しいと思います。実践してみて失敗するかもしれません。そして、私たちが言ったことは嘘だな、違うな~と思われるかもしれません。そうだったら、是非、私に「これこれは違う」とぶつけてください。メールでも手紙でも電話でも結構です。私はそれに出来るだけ対応します。なぜなら、それによって皆さんが人生を賭けた教師という職に誇りを持てるよう、お手伝いをしたいと願っているからです。そして、それによって私が人生を賭けた大学教師という職に誇りを持ち、人生を全うしたいと思うからです。』
くちはばったい、不遜な物言いかもしれません。でも、言い終わった後、とてもしっくりしました。私は45歳です。おそらく90歳まで生きられないかもしれません。つまり、人生の半分を過ごしました。今まで生きた時間より短い時間しか生きられません。その時間を大事に、誇りある人生を過ごしたい、と思います。もう、他の人生を選ぶことは出来ません。ならば、いま自分の選んだ職を通して、他者の役に立つことこそ、人生を全うする道だと、言い終わった後、確信しました。
追伸 ただし、私の人生を全うする第一の前提は、私の愛する家族の幸せであることは言うまでもありません。大学教師としての職に誇りを持つために、家族を犠牲にすることは馬鹿げていると言うことは、言うまでもないことです。でも、家族の幸せと、大学教師としての誇りを矛盾無く満たす道があり、かつ、それをやっている自負があります。不遜ながら・・