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2015-03-19

[]教材研究 09:13 教材研究 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教材研究 - 西川純のメモ 教材研究 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「『学び合い』では教材研究をどうするのですか?」、これは数ある典型的な私への質問の一つです。私の返答は、『学び合い』の初心者の方、中級者への方、上級者の方では違います。そして、それらは真逆なことも言います。だから、注意しないと混乱します。

 初心者の方の場合は、「してはいけない」です。そして市販の教材を活用することを勧めています。理由は、教材研究は時間がかかり、その労力が活かせる場面は短いのです。つまり時間に関してコストパーフォーマンスが低いのです。だから、それに費やす時間を、もっと直近で費やすべきものに費やすべきだと勧めます。第一は、家庭の時間です。少しでも早く帰り、家族と喋る時間に費やすべきです。

 中級者の場合は、やることを勧めます。というより、やります。『学び合い』の実践者がよく言うことですが、「『学び合い』は教材研究をしなくても出来るが、したくなる」。これに解説が必要です。『学び合い』は教材の力ではなく、教師の子どもに対する思いで成立させる教育です。だから、極論すれば教材研究は必要ありません。確信を持って「勉強しなさい」と言えば良いだけのことですから。しかし、『学び合い』では子どもの多様な発想が表出します。それをいっぱいみるのです。そのため教科部会(すまり、その教科の大好きな人が集まる会)では絶対に話題に出ないような発想を知ることが出来ます。そのため、調べたくなるのです。

 上級者の場合は、勧めますが、そんなに簡単なものではないことを伝えます。私の考える教材研究の行き着く先は、その教科が与える「美」であり「善」を子どもに伝えるものだと思います。そのレベルになると、校務の合間にチョコチョコやる程度では無理です。生活自体がそのものにならねばならない。これは研究者、それも研究環境の条件的に驚異的に恵まれた研究者が実現できるかもしれないレベルです。それに準じたものを小中高の教師が実現しようとするならば、趣味は厳禁、もしかしたら家庭も持てないかもしれません。そのレベルだと語ります。その上で、やりますか?と問います。

 じゃあ、そのレベルに行かない教材研究は無駄かといえば、そうでもありません。

 『学び合い』ではないですが、心から尊敬している教師の本の中には教材研究を勧める本は少なくありません。というより、尊敬に値する教師の本であれば、すぐに使えるノウハウの記述にとどまる訳ありませんから。しかし、その教師にとっては当たり前すぎて省略されていること多いものが実は最も大事な点だと私は思うのです。

 それは誰のための教材研究か、です。

 子どものため、といいたいところですが、そうとは言えません。教材研究に熱心な教師のかなりの割合は、自分のため、としか思えないのです。

 私の元々の専門である理科教育学には、教材開発の論文が山とあります。その多くは、その教材の背景となった学術の記載があり、それに基づくデータ分析があり、それに基づいて教材を開発した論文です。面白いことに、それらの論文には、それを実際に授業に使って子どもが分かったか否かを調べた形跡がないのです。少なくとも、それを論文に記載していない。変ですよね。子どもに分かって欲しいと願って教材開発をしたならば、当然、そこまで調べるはずです。それが無いならば、それを願っているわけではないのです。これは理科教育学での教材研究の過半数を占めています。おそらく、他教科でも五十歩百歩だと想像します(違っていたらすみません)。

 結局、子どもは教師の心を読み解き、それによって学ぶか学ばないかを決めます。私の高校時代、授業能力が高いとは思えない先生がおられました。しかし、生徒に対する愛を感じる先生がおられました。その先生が亡くなるまで、毎年、年賀状を送らせていただきました。

 逆に、授業準備がバッチリで、教材研究をしっかりした中堅の先生がおられました。私は嫌いでした。そして、その先生の前で内職をして、そして学年トップの成績を出しました。その先生には愛を感じられないからです。

 この部分を教材研究を勧める方は、是非、強調して欲しいなと願います。

[]辛い 07:12 辛い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 辛い - 西川純のメモ 辛い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子育てをしたかたならば分かると思います。子どもを育てることによって多くのものを得られる。しかし、そのためのエネルギーは莫大です。今、目の前に息子が机に向かっています。そして、中2の息子に高校入試の厳しさを語って尻を叩きます。彼が来年立ち向かう高校入試のことを思うとドキドキします。しかし、大学入学を考え、親の管理下から離れた下宿生活、就職後、結婚生活・・・、自分の過去を思い、息子を思えば、ああなってしまうんじゃ無いかと不安で仕方がありません。

 ゼミ生に対しても同じです。しかし、共感能力が病的に高い私はそれをしてしまうと頭がおかしくなります。私が高校教師だったとき、どれほど楽しかったか、そして生活がめちゃくちゃになったかを思い出します。あの当時は、子どもを高い高いしました(高校生を高い高いを出来るだけの体力もありました)。実際にベロベロなめ回してからかったことはあります(もちろん女子はしませんでした)。でも、結果として一人一人の闇を知り、何とかせねばと動き回り、でも、何も解決できません。彼らの闇は、たかが一人の教師が何とか出来るようなものではありません。担任する子どもは三十人です。三十倍の闇を背負えばめちゃくちゃになります。だから、ゼミ生が可愛いという気持ちを封印します。

 ところが、このごろそれが緩んでしまっていることを気づきます。馬鹿馬鹿しいのですが、ゼミ生に説教をしているとき、「先生はね」とか「私はね」とか「俺はね」と言うべき時に「お父さんはね」と言ってしまうことがあります。二十代のゼミ生ばかりではなく、四十代のゼミ生に対してもです。苦笑します。

 小中高の先生方と違って、大学教師は毎年、担任した子どもを社会に送り出します。おそらく二度と会わないであろうゼミ生もいると思います。そう考えれば辛い。

追伸 最後の挨拶に来た学生の場合、若い男子学生の場合はダッコをします。女子学生や現職院生は握手をします。それだけは封印を解くことを自分に許しています。

[]卒業式 06:51 卒業式 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 卒業式 - 西川純のメモ 卒業式 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私にとって1年のうちで最も閑な勤務日はいつかと言えば、今日です。夏期休業期間ではありません。授業は無くとも講演があります。休み明けの実習に向けての準備があります。

 今日は卒業式・修了式の日です。これは小中高の先生方には全く理解できないと思います。

 大学の卒業式・修了式は事務の方がしっかりと準備し、運営してくれます。教員の中で仕事があるのはひな壇に上がるような人です。しかし、それとてもひな壇で座っているぐらいの仕事しかありません。仕事があるのは学長ぐらいです。

 私のような下々は式には出席しません。式には卒業生・修了生、その家族の方々でいっぱいで、我々教員の座るような席は殆どありません。私には何の仕事もありません。大学の事務は式の仕事で手一杯で私に仕事を振りません。学生も卒業生・修了生を送り出す催し物で手一杯です。

もちろん、教員の中には式に参加する方もいます。式の後の祝賀会に参加する方もいます。しかし私は出席しませんし、出席せざるを得ない場合も最後までいません。理由は辛いのです。その式に出席する卒業生、修了生の一人一人が思うもの、彼らのこれからのことを考えると、その重さに耐えかねてしまうのです。

ということで、私は一日まわりに関わらずに過ごします。ま、本の原稿を書こうと思います。そして自宅に戻ってから、心の中で彼らの幸多きことを念じます。