■ [う~ん]野望の先
一流の実践者、一流の研究者を育てることはエキサイティングです。が、大変です。教え子のやりとりはワクワクするのですが、教え子を取り巻く人、これから関わる人と「関わる」のは難儀です。私がほっておいても何とかするのが「一流」です。が、これからの人は弱い面がある。そうなると、尊敬できない人とのつきあいをしなければならない。
上越教育大学に勤める限り、一流の実践者を育てることは仕事です。でも、一流の研究者を育てることは、しなくてもいい。だから、最近、避けています。もう、受けた恩義は返しましたから。
本日、30分だけ、昔に返りました。ま、祖父母が孫を相手にしているようなものです。責任がない、ということです。
年をとったなと、思います。野望の行き着く先が、だいたい分かるようになっています。
ま、孫は可愛い。でも、それよりも可愛いのは孫を育てている、子どもです。
■ [大事なこと]業務連絡
私はゼミ生に「授業が成立しないあれたクラスの担任だけど、職員室は和気藹々としてサポートしてくれるのと、職員室は殺伐として、いつ何時攻撃があるかもしれないけど、クラスは上手くいっているのと、どちらを選ぶ?」という究極の質問をします。
みなさんはどちらでしょうか?
私は迷わず前者です。そして、ゼミ生の全員は前者を選びます。
私が採用された高校は、前者でした。だから、耐えられた。
私は「『学び合い』は学力向上も人間関係作りにも有効で、楽である。」と主張します。『学び合い』の実践者だったら「『学び合い』は学力向上も人間関係作りも有効である」ということは認めていただけると思います。パーフェクトでなくとも、「まし」、それも「かなりまし」であることは認めていただけると思います。理屈は簡単です。三十人の多様な子どもの学力を上げ、人間関係作りをたった一人の教師が背負うのと、クラスのみんな(正確にはクラスをリードする2割の子ども)と背負うのと、どちらが有効であるかは自明です。さらに、元気いっぱいな子どもに「座りなさい、黙りなさい、ノートをとりなさい」と求めるのと「たち歩いて相談してもいいよ。でも、一人も見捨ててはダメだよ」と求めるのと、どちらが難しいでしょうか?
でも「楽」と言われると首をかしげる人もいるでしょう。
たしかに、今までの授業だったら見なくてもよいクラスの闇を観なければなりません。子どもたちが反発しても、求め続けなければなりません。周りの人に説明しなければ杏里ません。これが「楽」かと言われても・・・と思うかもしれません。
でも、「楽」でない原因は何でしょうか?
もし、あなたの学校に『学び合い』の実践者があなた以外に二人いたらどうでしょうか?あなたが結果を出せなかったり、出せても上手くアピールできなくとも、結果を出してくれる人があなたをかばってくれたらどうでしょうか?あなたが落ち込んだとき、「私も同じことがあったの。その時はね・・・」と言ってくれる人がいたらどうでしょう。私は、早くそこに持って行きたい。『学び合い』には合同『学び合い』という奥の手があります。これは従来型授業をする人には絶対に出来ない奥の手です。
とあいえ、またですね。
でも、それに近づいているでしょう。
今、日本の教育をリードする2割の人(権力ではないですよ)の2割、つまり、4%ぐらいは『学び合い』の実践を取り入れたり、シンパシーを持ってくれていると思っています。別な言い方をすれば、身銭を使って本を読み研究に参加する人の2割の人は『学び合い』の実践を取り入れたり、シンパシーを持ってくれていると思っています。徐々に近づいているのです。
では、今はどうすればいいか。
職場の人と上手くやってください。あなたは同僚の先生がどのような教育実践をするかで嫌ったり、好きになったりしますか?おそらく、しない。普通につきあえばいいのです。一度「新任1年目を生き抜く 教師のサバイバル術、教えます」を読むことを勧めます。経験20年の人もです。ようは、挨拶をして、出来ることを手伝えばいいのです。そして、合意できないことは突き詰めないで、問題の先送りをすればいい。夫婦間のつきあい方と同じです。
■ [大事なこと]戦略
あるゼミ生に、「実際に小学校に次期学習指導要領が全面実施される32年度には日本の教育はどう変わるのですか?」と聞かれました。このような質問はゼミ生はもちろん、その他の人からたびたび聞かれます。その度に、私は間髪入れず、満面の笑みをたたえて「何にも変わらない」と応えます。そして以下のように説明します。
『日本には小中高の教師が70万人いる。単一の職種としては最大の職種だ。教育は日本における最大の事業。関わる人は膨大だ。そのような人達が一気に変わるわけない。
32年度になれば、「な~んだ。今までと同じじゃん」と気づく。だって、みんな変われない。それを互いに知る。そして、今回の学習指導要領はどんどん形骸化する。これは総合学習の導入時期にあったこと。総合学習の熱が燃え上がったのは、学習指導要領の答申が出る前後。そして、実際に全面実施してみれば、みんなが今のままの授業をし始める。「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する」の自らが子どもではなく、教師に置き換わる。結局、クロスカリキュラムが総合学習であるという形骸化が起こり、教材開発する教師にとっては総合学習だけど、子どもにとっては今まで通りの学習になってしまった。
おそらく、アクティブ・ラーニングもカリキュラム・マネジメントも同じだよ。アクティブ・ラーニングは話し合い活動に形骸化し、カリキュラム・マネジメントはコミュニティースクールに形骸化する。致し方ない。
学習指導要領の委員だって色々な人がいる。穏やかにしたいと思っている人もいる。その人達は、改革が行き過ぎなような意見を言う。最終的な案は、それらの人達の意見を併記するしかまとまらない。つまり、今のままでも大丈夫な逃げ道を含んでいる。
でもね、私はそれを繰り返したくない。だから、32年度までに2種類の教師を一定以上生み出したいと思っている。第一の教師は、自分たちの毎日の授業が目の前の子どもの30年後、40年後、50年後の生活を決めるものであり、生き死を決めるものであることを理解する教師。第二は、主体的で対話的な授業が、今までの授業より学力向上や人間関係づくりに有効で、何よりも「楽」であることを理解する教師。
早晩、従来型授業では、従来型の進路指導やキャリア教育では我が子がどうなるかを保護者が知ることになる。その時に、ソフトランディング出来る準備をしたい。そして、何よりも、今目の前にいる子を一人でも奈落への道から救いたい。今できるのは、さっき言った2種類の教師を一人でも多く生み出すことだと思う。私の基本戦略はそこにあるんだ。』と。
もし平成32年度までに、先の2種類の教師が全教師の2割を超えることが出来たならば「日本の教師は大きく変わるよ」とゼミ生に応えられる。
私の難敵は、『学び合い』に反対する人ではないのです。今の授業でも実現できるレベルの学力向上や人間関係づくりで満足している教師なのです。別ないい方をするならば、「子ども」という言葉を安易に使う人です。子どもという子どもは一人もいません。そして、その規格から外れた子どもは十数年間、かなり辛い学校生活を送り、卒業後は社会の中に受け入れられない。その割合が昔は2割程度だったのが、今は4割になり、5割になりつつある。キツいいい方ですが、卒業後の子どもが不幸であっても教師は分かりません。意識しなければ。卒業生が集まったとき、そこにいない子どもの現在を分かりません。知ろうとしない限り。私も含めて、公務員である教師は、自分は安全なポジションにいます。繰り返します。私もそうです。仕方がありません。人は、解決出来ない問題から目を背けます。例えば、死から逃れられないことから目を背けるように。だから、その死に目を向けるようなことを言う人は嫌われます。私のように。正直、私自身が辛いのですから。私が逃れる術は、常に戦略を考え、何かをすることです。