■ [大事なこと]目標と方法
前回の全体ゼミでは、教師の授業観、子ども観を見る視点が議論になりました。最近、我々が着目している視点は、「目標を語る、方法を語る」(または、長期の目標を語る、短期の目標を語る)という視点です。
子どもを信じられない子ども観を持つ教師は、結果として、何から何まで教師がやらねばならないという授業観を持ちます。そのような教師は、どんどん先走りし、「こうやったらいい」、「こうやってはいけない」という指示を出します。つまり、方法を語りがちです。また、目標も短期的な目標(例えば、今日はこうしなさい。または、5分以内にこれこれしなさい。)という指示を与えがちです。
一方、子どもが有能であると信じられる子ども観を持つ教師は、結果として、子どもに任せよう、子どものやりやすい環境を整えよという授業観を持ちます。そのような教師は、最終的な目標を語り、その目標が学習者の個人としての目標、そして学習者集団の目標となるよう語ります。仮に、学習者から「どうしたらいいの?」と聞かれた場合、よほどのことがなければ、「君はどう思うの?」のように問いかけるにとどめます。
以上のような視点は正しいと思います。でも、研究を進める場合、記録に残された教師の言動を「目標を語る」、「方法を語る」に分類する必要があります。そうなると、どのように分類したらいいのかが問題となります。
7月2日のメモ「目標を語るとは?」では「第一は目標が明確かであり、第二は目標がどのような目的を持っているかであると思われます。」という基準を出しました。しかし、この基準でも明確に分類できにくい場合があると思います。全体ゼミで、学生さんたちの議論を聞きながら、必死になって私も考えてみました。その結果、「確かに、ここの言動を目標を語っているか、方法を語っているかで分類することは困難だ。でも、その先生方が子どもを信じているか、信じていないか。また、どれほど信じているかに、関しては、それほど悩まないんではないか。」と思い至りました。つまり、その場の状況という複雑な文脈から分離して、ここの言動を分類することは困難です。しかし、その場において、信じられない先生がするであろう言動を予想することは簡単です。だって、普通の先生がやっていることを予想すればいいことですから。また、信じられる先生がするであろう言動を予想することは、困難ですが可能です。つまり、信じられる自分が、どのような言動をするかを予想すればいいことです(ただし、どのレベルの言動を予想できるかは、本人の信じられるレベルに依存しますが)。従って、記録の中にある先生が信じているか、信じていないかは、それほど悩まずに判断できます。そこから、ここの言動を解釈することは可能と思われます。
■ [大事なこと]学び合うことを目標とすべきか
前回の全体ゼミで議論が分かれたのは、「学び合うことを目標とすべきか?」ということです。
私は、学校は「学び合う」場であるし、学校教育の最大の目標は「学び合う」ことを経験することだと思います。しかし、教師が「学び合う」ことを子どもたちに求めるべきか、否かは議論が分かれます。私の場合は、求めるべきでなく、求めるべきである、という曖昧なものです。
教師が目標として求めなくても、適切な場を設ければ、子どもたちは学び合い始めます。さらに、教師があれこれ求めすぎると、そのことに子どもたちが拘り、かえって学び合いづらくなります。したがって、「求めるべきでない」となります。
しかし、現状の学校教育では、学び合いを阻害する場があり、それに子どもたちが囚われています。つまり、教師が「学び合い」を許したとしても、それを信じられない子どもがいます。黙っていてもしばらくたてば、教師の本音を見透かします。したがって、本気で教師が「学び合い」を許していれば、2、3ヶ月もたてば、子どもは学び会い始めます。しかし、2、3ヶ月かかります。しかし、教師が「学び合う」ことは良いことだと明示すれば、2、3週間で子どもは学び会い始めます。つまり、短縮することが出来ます。だから、「求めるべき」となります。
ただし、本にも書きましたが、「学び合う」ことを求めたとしても、「学び合わない」ことも許さなければなりません。