■ [感謝]ありがとうございました
私が助手だったとき、当時の院生さんから「助手って助平(すけべえ)の手という意味ですね」とからかわれていました。さしずめ助教授はスケベな教授となります。本日、スケベでない教授の辞令を受け取りました。
教授というとジーさん・バーさんと相場が決まっています。私も42歳(あと半月で43歳ですが)ですので若くはありません。しかし、42歳の教授は上越教育大学では 開学以来の最年少記録です。この年で教授になったことに関して分析すると、私の人運の強さを感じ、多くの方々に感謝しなければならないと思います。
教授になるに当たって教育・研究の業績審査が行われます。教育の業績としては、卒業研究、院生の指導歴が評価の対象です。これに関しては、西川研に所属を希望され、卒業・修了された多くの学生さん・院生さんに感謝しなければなりません。私を選んでくれて、信じてついてきてくれてありがとうございま した。また、教師用雑誌における論文、また、各種講演会も教育の業績として評価してもらいました。お金を出してでも、西川の文章や話を求めていただいた方々に感謝します。ありがとうございました。
研究の業績評価では学術論文・著書が評価の対象です。初期の研究では、私自身が全てを行っていました。しかし、調査対象としての小中高の児童・生徒が確保できたのは、現職院生さんのお力です。現職院生さんの現任校が調査協力していただけたおかげで、多数の論文を書くことが出来ました。結果として万を超える児童・生徒の協力を得ることが出来ました。中期以降は院生さん・学生さんとの共同研究です。特に後期になると院生さん・学生さんが主体となっています。さらに著書も、上記の学術論文の成果をまとめたものです。つまり、私の研究業績は院生さん・学生さんの協力によって成り立っています。ありがとうございました。
また、教師としての姿を教えてくれた多くの恩師に感謝しなければなりません。さらに、大学での恩師には研究の手ほどきをいただきました。また、高校で実践を教えていただいた先輩教師、管理職に感謝します。
さらに、そのような私の教育・研究に関する我が儘(わがまま)を、めいっぱい許してくれた指導教官の小林先生、助手時代のボスの根本先生、今のボスの戸北先生に感謝します。私は年長者・目上の人に対しては率直な意見をガンガン言います。第三者(もちろん当事者も)が見れば、失敬なやつとしか見えません。上記の3先生は特にその被害にさらされました。もちろん、その他の教授の方々もその被害者です。その不従順で生意気な私を教授に選んでくれた、上越教育大学の教授の方々にも感謝します。
■ [う~ん]教授と助教授の違い
私が教授になることが決まってから、何人かの院生さんから、「教授になると何かいいことあるんですか?」という質問を受けます。いちいち答えるのも何ですから、私なりの解釈を書きます。
大学で生活している人以外には、助教授という職階があるということ自体、一般には知られていません。大学の先生はみんな教授と思っている人も少なくないと思います。しかし、大学教師には教授、助教授、講師、助手という職階が存在しています。そうなると、それぞれは小学校・中学校・高校の校長、教頭、教諭という職階に対応していると誤解される方もおられます 。しかし、校長、教頭のような管理職に対応するのは、大学は学長、副学長、学部長、主事が対応します。教授が対応するのは小学校、中学校・高校における教諭に対応します。
となると、なーんだ、ということになりますが、大学においては「えらーい」役職と思われています。というのは、小学校、中学校、高等学校においては、校長・教頭は教育委員会が選びます。また、職員会議というものはありますが、校長の判断を縛るものではなく、学校においては校長が最終決定権を持っています。ところが、大学においては学長等の管理職は教授会が指名します。また、各種の決定は、最終的には教授会の承認を必要とします。ということで、教授は大学の管理に関して一定の職権を持っています。特に、人事に関しては教授会の専権事項とされています。ここで言う人事とは、だれが教授になるかということを決めることが主なことです。
では教授になると何がいいか?第一に、先に述べた人事に関する職権を持てます。第二に、昇級の幅が違います。私の場合ですと、助教授の定期昇給額と教授の定期昇給額を比べると2倍違います。つまり、助教授で2年かかる昇級が、教授だと1年であがります。第三に、研究費の額が違います。文部科学省からの示達だと、これまた2倍ぐらい違いがあります。
しかし、以上3つの違いも本質的なものではありません。何故かと言えば、人事権を持つことを権利(または権力)ととらえるか、(いやいやながらの)義務ととらえるかは人によりけりです。他人様の人事を動かしたいと思う方にとっては権力となります。ところが、他人様の人事に関わりたくないと思う人にとっては義務に過ぎません。だって、人事に関しては、うまくいって当たり前、失敗すれば恨まれるのは目に見えています。少なくとも、私は義務と感じる方です。
また、少なくとも上越教育大学においては、ある年齢の教官の給料が、相対的に低い場合(助手などを長くやっている場合など)、特別昇給などを優先的に与えることによって、格差を縮めています。また、学習臨床コースの場合、大学から示達される教授、助教授等の各職階ごとの研究費の違いは無くしています。
ということで、教授になることのメリットは無い(もしくは、それほどでもない)というのが私の解釈です。でも、本当はメリットはとてもあります(混乱させる表現ですが)。大学において「教授」が凄い権力を持っていると思っている方は多くはありませんが、いることはいます(もちろん大多数の方は、さばけたリベラリストです)。そのような方は、「助教授ふぜいが」という思いが強く、従って、「俺が言うことに助教授は当然、従うはずだ」と思いこんでいます。そんな先生と議論すると疲れます。その先生の信じている「教授」の権力は、それほどでもない、と思わせることは可能です。でも、そうなると怒り狂ってしまいますし、そうなると後が面倒です。特に、私自身を攻撃できないとなれば、私についてきてくれる院生さん、学生さんが代理で攻撃されることになります。でも、教授になれば、そのような方の対応が、ころっと変わります。つまり、自分と自分の研究室の院生さん、学生さんを守ることが出来ます。それに、世間様の中には教授は助教授よりも偉いと思われている方は少なくありません。どう考えても、「たかが助教授」と思われるより「教授様」と思われる方が、なにかと仕事がしやすくなります。
以上が、「教授になると何かいいことあるんですか?」に対する私の解釈です。
追伸 以前のメモにも書きましたが、研究者として一番脂がのっているのは助手(もしくは院生)時代です。職階があがるごとに、研究者としての能力(少なくとも個人としての能力)は下がります。ブラックユーモアで表現すれば、「教授」とは「戒名」みたいなものです。でも、私はゾンビのように生き続けるぞ~!
追伸2 以上、罰当たりなことを色々書きましたが、少なくとも教授になれないよりは、ずーっと良いことは確かです。よく、博士号が「足の裏の米粒」に例えられます。曰く、「取らないと気になってしょうがない。でも、とってもそれを食べることは出来ない(つまり、博士号をとっても就職できない)」と言われます。でも、博士号を持っていない人(もしくは持てない人)にとっては、博士号のありがたさは切実だと思います。そのような人にとっては、「もし博士号があったら~」と悔やむ場面は少なくないと思います。私自身も教授昇任の審査が始まってからは、「教授になったら」ということは殆ど考えませんでした。考えたのは、「もし審査に落ちたら、ど~しよう」ということだけです。その意味で、「教授になれない状態にならなくってよかった」と思います。