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2002-11-18

[]ちょっと一服 17:56 ちょっと一服 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ちょっと一服 - 西川純のメモ ちょっと一服 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 記録によれば、13日ぶりのメモです。とにかく忙しい日々でメモを書く時間がありません。

 今年は、私の一生でも、もっとも慌ただしい1年の一つになります。何しろ、教授昇進の諸準備、新学会立ち上げ、それと後一つ(しばらく秘密)という3つが重なった年です。一つ一つでも数年ぐらいの準備がかかるようなことを重なっているんですから、忙しいのはしょうがありません。今回の13日間は、上記のうち二つに関連する書類書き、文案作りで忙殺されていました。それも一段落です。

でも、書類書きをしてみると、本当に細かいところに誤字・脱字があります。それを全部チェックするとなると、気が遠くなります。

[]またまた27禁 17:56 またまた27禁 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - またまた27禁 - 西川純のメモ またまた27禁 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の所には、全国から真面目な先生方のメールが来ます。それを読んで勇気づけられます。その中でYさんからのメールを紹介します。これを読み終わってから、色々と考えてしまいました。まず、メールの中で「西川先生」と書かれています。たしかに、文章は私なりの書き方で、説明の仕方の段取りがあります。しかし、その元となっているデータ、考え方は西川研究室(特に現職の方)が作り上げているものです。だからこそ、自信を持って主張できます。

  しかし、最も気になったのはYさんが「本を読んで」出来たという様に書かれているところです。ちょっと嬉しい誤解ですが、本当は違うな~と感じます。

 今、Okさんは教師の指導観・子ども観と授業との関係を調べています。具体的には、我々の研究室で進めている「子どもに任せる」という授業を色々な先生方に試してもらっています。その中では、「自己モニター」、「目標を語る」、「たち歩き」という我々の研究室での手法を取り入れてもらっています。しかし、結局は、うまくいく先生と、十分ではない先生に別れてしまいます。このことは予想の範囲内でした。

 数年前のことです。我々の研究室に所属された先生方の場合、100%の確率で成功していたので、「自己モニター」等の手法(テクニック)に自信を持っていました。そこで、その手法を知り合いの先生(かなり優秀な先生)に試してもらい、その過程を分析するという研究を卒研の課題としました。ところが、結果は惨憺たるものです。はじめは信じられませんでした。しかし、授業の様子を知るにつれ、自己モニター等の手法が、使う人によって全く違う意味を持つことを知りました。その結果から、手法(テクニック)ではなく、指導観、子ども観が重要だという理解を得ることが出来ました。

 我々が考える指導観、子ども観というのは既存の考え方からはかなり異質です。だから、我々の研究室に所属する人でさえ、本気で信じられるのに半年ぐらいかかります。でも、下記のメールのように、本を読んでメールやりとりをする程度で、手がかりを得ている方もいらっしゃいます。現状での我々の研究室の成果は、万能薬ではないことを自覚します。我々の研究室の現状で出来ることは、以下の程度です。

1.既に出来る人で、かつ自覚している人に、「ああ、やっぱりね」と感じさせる。

2.既に出来る人で、でも、その重要性に気づいていない人に、「へ~、そのことが大事だったんだ~」と気づかせる。

3.指導力は十分だが、子どもの有能さに気づいていない人に、「ほ~、じゃあ試してみようか」と思わせる。

 この程度ですが、重要なことだと思います。でも、最終的には、新採の若い先生方が、どのように職能を高めていくかのレベルまで発展したいな~と思います。しかし、「自己モニター」、「たち歩き」をしました、「ほ~ら、出来たでしょ」というようなテクニックに走る誘惑には断固として負けないようにしたいと思います。

『こんにちは。Yです。

 ここ二週間ほど仕事が立て込んでしまい、メールが打てませんでした。(言い訳ですね)

しかし、仕事の合間を見て、西川先生の本「学びあいの仕組みと不思議」を書店で見つけ、購入しました。まだ十分とは言えませんが、一通り読みました。読んで、まず思ったことは、「(西川先生の言う)理想のクラスを作ってみたい」です。たぶん(絶対)子どもたちは、自分たちで何かを学ぼうとして授業に臨んでいるんだと思います。特に小学生は、その気持ちが大きいのだと思います。「知らなかったことを知りたい」とか「このしくみや中身を知りたい」と子どもたち

はいつも思っていますよね。だから、教師の後ろにまわって教師の使う本を覗いたり、壊れた機械を分解したくなるんですから…。でも今までの多くの授業では、子どもたちの気持ちを教師(私自身)が打ち砕いてしまっていたことに気がついたのです。昨日、宿題の確認カード(通称:本読みカード)の保護者コメント欄にこんな言葉を見つけました。(2年生国語の「さけが生まれるまで」の本読みで)「さけはどうしていっしょうけんめい川を上ってくるのかな?先生に聞いてみよう」。 わたしは、この言葉を見て、「ちょっとまてよ」と思いました。確かに、正確ではないかもしれませんがこの川を上ることについての答えをわたしは持っていますが、それは、わたしの教えることのだろうかと…。わたしは、便利な物知り帳ではないのだと。そこでわたしは、コメントに「わたしに聞くよりも良い方法があります。それを○○さん(子どもの名前)に教えます。」と答えました。それは、クラスの仲間、知っている子に投げかけ、みんなで答えを見つけようとすることだと思ったのです。

 この話とは別に、実は西川先生の本を読んで、第1章の「理想の授業」を試してみました。(なんとむちゃくちゃと思いますよね)授業のはじめに本時の課題や目的を出して、後は子どもの活動時間にする。わたしは、子どもたちの声を拾うことだけをしていました。(小学校2年生です)すると、案外自分たちで学びだすものですね。掛け算の授業でしたが、日頃集中できず、よそ見をしている子や問題も読めず、固まっている子も自分で九九カードを使って、掛け算を覚えようとしているのです。その姿を見て、「自分が前に立つより学習しているなあ」と変な気持ちになりました。他の子の動きでは、近くの子で小さなグループを作って教えあっている場面が多くありました。しかも、掛け算についてのことで話をしているのです。普段はあまり発言のない子や周りとかかわりのない子も話の輪に加わって楽しそうに話をしていました。

 でも、まだ教師を意識しているのも確かでこちらを見ては、何かを言って欲しいそうな目をしている子が何人かいました。いつも授業で良い発言をする子達でした。今回思ったのは、「授業は誰のものか」ということです。「小学校低学年だから教えなければならないことがいっぱいある」という先生が多いです。ですが、教えることに夢中になり、子どもが授業の中で学びたいこと、知りたいこと、やってみたいことを奪っているのではないかと感じたのです。子どもたちにゆとりを持たせるといいながら、実のところ子どもの自由を奪っている今までの自分を含めた多くの教師の授業に限界を見たのです。「今のままの授業では話し合う活動などできるわけもない」と思い、授業の中での自分の子どもに対する声かけや課題の出し方に気を使うようになりました。(自分なりに)課題については、答えがどっちになりそうなのかを話し合うようなものにしたり、活動の途中では、「すごいな」「気持ちが伝わってくるよ」といった言葉でできるだけ、こちらの良し悪しで評価をするような発言をしないようにしています。すると、子どもたちも良くしたもので、判断を聞くような教師への発言が少なくなりました。今までは、「こうしてもいい?」という言葉でしたが「こうしたいんだけど、こうやったらできるかなあ?」という言葉になってきました。判断ではなく、同意を求めるのです。まだ本来の目指す姿には程遠いと思いますが、そのうちに、「先生、こうやって見たけどこうなったよ。わたしはいいと思うんだけど先生はどう思う?」となってくれると思っています。(そうなっていくためのクラス作りをしていきたいです)また、今日の清掃の時間の子どもの様子を見ていて、変化に気づきました。今まで、はっきりいって掃除をしない子どもたちでした。清掃=怒る時間だったのです。しかし、今日は、黙ってみていると、自分たちでやっているのです。確かに話はしているのですが、手を動かし、どうも話の内容が、掃除のことなのです。「ここにごみがあるよ」「ここはまだ拭いてないからわたしが拭くよ」とか「そろそろ時間だから机を運ぼう」など。また、ほうきで掃く、はきての子もすみずみまで良く掃いているのです。無論、子どもたちは教師を意識しているでしょう。しかし、明らかに違うのは、指示を待たず、自分たちの意志で掃除をしている姿なのです。少しは、理想の授業の効果があったのでしょうか?わたしは、信じたいです。なぜなら、子どもたちが忙しい授業の中でものびのびとやっているからです。』