■ [ゼミ]オリジナリティ
先日、某大学の大学院生の方からメールを頂きました。「学び合う教室」の読者様です。色々とありがたいお言葉を頂きました。若い真面目な方からのメールは元気を与えてくれます。その中に、「オリジナリティをどうやって出せるか?」という質問を頂きました。院生さんはメモの読者だそうなので、メモで返事を書こうと思います。
学術論文では、今まで誰も知らなかったということを明らかにしたことを評価します。どんな凄い発見であっても、だれかが既に発見していることが分かれば、無価値となります。そのため、いやしくも学術論文の最初には、今までどこまで研究がなされ、この論文のどこが新たな点(これをオリジナリティと言います)であるかを明示します。
それではオリジナリティを出すにはどうするか?教育研究に関しては、それほど難しくありません。それは教育研究がカバーしている範囲に比べ、研究している人の人口は少ないので、穴だらけと言っていいでしょう。だから、どんな研究をしようと「絶対」にオリジナリティはあります。問題は、どこにオリジナリティがあるかを発見し、それが重要だと言うことを納得させるかです。どこにオリジナリティがあるかを発見するためには、関連する先行研究を、効率よく見つけられるかにかかってきます。関連する先行研究が集まれば、それを注意深く比較検討すれば、絶対に穴があるはずです。例えば、調査内容とか、調査対象などが代表的なものです。仮に、今までの研究では中学校、高等学校を対象としていたが、小学校は対象となっていなかったと分かったとしましょう。そうした場合、小学校で研究することが大事なんだということを調べます。方法は、小学校の教育一般に関する代表的な文献を引用したり、小学校を対象としているが別な調査内容を扱っている一定レベル以上の研究を引用したりします。このあたりのノウハウについては、「実証的教育研究の技法」に書きました。このあたりのノウハウが有るか無いかで、論文がどれだけ書けるかが決まります。そして、職業研究者として生き残れるか、否かが決まります。
以上が、大学院生さんレベルが求めている回答です。しかし、その先があります。本当のオリジナリティ、そして、自分の心に響く研究をするためのオリジナリティは別の次元にあります。それは、一般には当然の前提としており、疑われなかったものとは逆のことを明らかにした場合、本当のオリジナリティです。
我々の研究室のオリジナリティは、「教師は教えることがうまい」という常識を覆し、「教師より学習者の方が教えることがうまい」ということを明らかにしました。また、「教師が教えたから子どもが変わる」という常識を覆し、「子どもは自ら学ぶもの、だから、教師が邪魔をしなければ子どもは変わる」ということを明らかにしました。また、「良い授業のためには良い教材、良い指導法が必要だ」という常識を覆し、「教師の子ども観、授業観、目標観という考え方が重要で、それさえあれば普通の教材、普通の指導法で良い授業が出来る」ということを明らかにしました。以上のようなオリジナリティをあげていけばきりがありません。少なくともうちの研究室の院生さんの場合、少なくとも一つは、上記のレベルのオリジナリティのある修士論文研究を行っています。そして、私はそれを誇りに思っています。
それでは上記のようなオリジナリティをどのように得るかといえば、ごく普通に研究するしかありません。奇をてらって、わざと常識の逆をねらったとしても、まず失敗します。常識はそれなりの妥当性があるから常識となっています。その逆を出そうとねらったとしても、うまく出るわけはありません。我々の場合も、最初から狙っているわことは無いわけではありません。しかし、本当に面白いオリジナリティは、ねらったものではなく、むしろ副産物として出ることが多いように思います。それでは何故、ねらいもしないのにもかかわらず、常識を覆すオリジナリティが出るのかと言えば、今までの研究が見ていたレベルを超えた、常識を越える方法で現象を見ているからです。今までの研究が、アンケート用紙や、一度か二度程度の授業観察をしているのにもかかわらず、我々の研究室では数ヶ月の授業を見ます。それも複数回見ます。そして、授業観察の記録も、1台のビデオカメラだけではなく、数台のビデオカメラ、10~40台のカセットテープレコーダー(最近はICレコーダー)を使い、文字通り、全ての子どもの、全ての言動を記録するという方法をとります。光学顕微鏡しかない時代に、電子顕微鏡をもっている人を想像してください。別次元の分析方法を持っていれば、別次元の結論を出すことが出来ます。
つまり簡単にまとめましょう。一般的には、オリジナリティを出す方法は、先行研究をちゃんと調べ分析すれば出すことが出来ます。しかし、別次元のオリジナリティを出すためには、別次元の分析方法を持つことです。そして、それを実現する方法は、別次元の分析方法を持っている集団の中に身を置くことです。おかげさまで、私は西川研究室という優れた院生さん、学生さんの集団の中に身を置くことが出来るので、労少なく、研究によってウルウルすることが年に何度も出来ます。
■ [う~ん]○合
大学入試で合格が決まったとき、「あ~、これで試験は終わりだ~」と思いました。ところが、大学院の入試を受けることになり、それが合格するとき、「あ~、これで試験は終わりだ~」と思いました。ところが、世の中、そんなに甘くありません。教員採用試験があります。教育法規を丸暗記したり、コメニウスやペスタロッチを勉強しなければなりません。ちなみに、教育学で飯を食っていますが、現在まで教員採用試験での勉強で役に立ったためしはありません。受験勉強をしている仲間と、「なんで、こんな馬鹿馬鹿しいことを試験に出すんだろう・・?」と議論になりました。最終的には、「これほど馬鹿馬鹿しいことを勉強しても、先生になりたいという熱意を試験しているに違いない」という結論に落ち着きました。幸い、東京都で拾って頂きました。「あ~、今度こそ、今度こそ、これで試験は終わりだ~」と思いました。ところが、世の中、そんなに甘くありません。大学に職を得るため書類を書き、面接を受けました。その後も、助教授、教授に昇任するたびに、多くの先生方による審査を受けました。この度、おそらく本学で職を得ている間は、最後の審査を受けました。
大学教師には教職免許状はいりません。その代わり、大学院の授業を担当するには「合(ごう)」資格が必要ですし、大学院生を指導するためには「○合(まるごう)」資格が必要です。教授になるとき、修士課程の○合資格の審査があります。しかし、博士課程の合、○合は、上越教育大学の資格審査とは別個に、上越教育大学、兵庫教育大学、鳴門教育大学、岡山大学の連合大学院の審査を受けなければなりません。そのため、本学170人強の教官の中で○合資格をおもちな方で、今後、研究指導出来る人は38人に過ぎません。(ちなみに、学習臨床に関係する24人の先生の中で博士を、今後、研究指導出来る人は5人だけです)
様々な理由から、早急に○合資格を取る必要が生じました。そのため、早急に博士の学位を取得し、この度審査を受けました。その結果、9月3日付で○合資格を取ることが出来ました。学位取得を計画してから2年弱もかかる審査です。「今度こそ、今度こそ、最後の最後の試験は終わった」という感想です。でも、世の中、そんなに甘くないのかもしれません・・・
追伸 これで晴れて博士の学生を受け入れることが出来ます。でも、心優しきT先生のように広い心は持っていません。だって、博士の学生を指導するということは、とっても、とっても手間がかかり、下げたくない頭をペコペコすることになります。それに職のない状態の博士の学生さんの惨めさを、よ~く知っています。ということで、私が受け入れる条件は「修士課程で指導した経験がある現職者で、2年間、宇宙一厳しい西川研究室を生き残れた人」、「義理と人情のしがらみがあり断れず、実績において研究能力を証明出来(つまりレフリー付き学術論文を書いたことがある人)、私と仲良くできる現職者」です。学卒者を受け入れることは基本的にしない予定ですが、「修士課程で指導した学生さんで、実績において研究能力を証明出来(つまりレフリー付き学術論文を書いたことがある人)、在学中および修了後も生活出来る家庭環境のある人」という宝くじ的な人がいたら指導するかもしれません。しかし、学者社会の就職状況は厳しいので、職を持っていない人に対しては、私の「良心」からお断りするようにしようと思います。
追伸2 学卒者さんや、他大学出身の現職者に厳しい条件を付けているようにお思いになる方もおられるかもしてません。しかし、私が学卒院生として大学院を修了し、高校に就職するときには、日本理科教育学会紀要1報、科学教育研究2報、Science Education1報という4つのレフリー付き論文の業績を既に持っていました。人に対して1報程度を要求しても罰は当たらないと思います。